抹消人事

ぱぴぷぺこ

第一章 転属します

第一章 第1話 ネットカフェ[Bobby]

 一見すると、ごく普通の喫茶店。

 だがここは、とある組織の外部連絡拠点として機能していた。


 窓には薄いレースのカーテンが日差しを穏やかにかえ、朝の静けさを漂わせている。


 カウンターの中では店主のボビーがジャスミン茶を淹れていた。ボビーはネカフェのオーナーにして、ここ中継局の局長でもあった。


 ふいに、扉の革ベルがコロンコロンと軽い音を立てた。押し開けて入って来たのは、ヒューイとマーカスの二人だった。


 ◇


「おはようボビー」


 ヒューイがそう声をかけると、続けて店に入って来たマーカスが、


「お久しぶりです。ボビー」


 いつもと変わらぬ挨拶を行った。


 二人は、組織が運営する育成施設アカデミーの「教育課」に所属する局員だった。


「おはよう、ヒューイ、マーカス」


 ボビーは親しみのこもった笑みで迎え入れ、カウンター席に着くヒューイたちに淹れたばかりのジャスミン茶を差し出した。


「プロジェクトの方はどうなんだ?」


「あと1ヶ月で終わり」


 カップを受け取りながらヒューイが答えた。


「それと、マッキーの転属が決まりました」


 ヒューイの隣に座ったマーカスの報告に、ボビーが眉をひそめた。


「転属って……外回り(外勤)なのか?」


「そう。認定試験落ちたから」


 ヒューイはそう言って、お茶を一口飲んだ。


 マッキーは彼らのチームメイトで、アカデミーの研究生(準局員)だった。


 この組織では、昇格試験に合格すれば正式な内部局員になれるが、落ちれば前線や部隊に回される。厳しい制度が存在していた。


「あいつ機械課のはずだろう? それでも落ちたのか?」


 ボビーが尋ねると、マーカスが答えた。


「実は『情報課』を受けたんだ。70点は取れたけど、あと、1.2点足りなくて……『機械課』なら通ってた」


「なぜ『情報課』なんか?」


 疑問に思うのも無理はなかった。だが現在、ヒューイたちが手掛けているのは「情報課教材の改訂プロジェクト」だった。


「育てたい生徒がいたんだ」


 ヒューイがぽつりと答えた。


「そいつのとこに行きたくて試験受けたんだけど……ダメだったから」


 それ以上は語らなかった。

 ボビーは黙って聞き、やがて静かにため息をついた。


 そして、ヒューイが、ふと顔を上げて言った。


「マッキーも配属の移動先が決まったし、俺たちも考えようと思ってさ」


 ボビーは少し驚いたようにヒューイを見た。


「転属するのか?」


 彼らはアカデミーに来て1年も立たずに、今の部署に移った。それから5年、異動することを拒み続けた彼らが、自ら異動を口にしたのだった。


 マーカスが静かに様子を見守る中、ヒューイは誰とも視線を合わさずに答えた。


「気になる奴の居るとこへ」


「二人で行けるところにね」


 暫く黙っていたボビーは、更に踏み込んでヒューイに尋ねた。


「……SIS(中央情報管理局)には戻らないのか?」


「あそこは出禁」


 ヒューイはあっさりと答えた。


「まだ祟ってんのか」


「さぁね…。でも俺たち『教育課』だから、行ってもやることは知れてるよ」


「それで? 気になる奴って、誰なんだ?」


 ボビーの声には心配の色が混じっていたが、マーカスは苦笑気味に一言だけ告げた。


「知らない」


「なんだそれは?」


 呆れたように聞き返すボビーに、ヒューイが説明した。


「マッキーが世話をしてた生徒(メンティ)だよ」


 続けてマーカスが捕捉した。


「育成生徒情報って『所属部署、履修課名、在籍番号』くらいしか見られないから、名前までは分からないんだ」


「所属って……学生じゃないのか」


「正局員だよ。今はセキュリティ部署。少し前までは情報課の学生だった」


 マーカスが説明を加えた。


「きっとやりたいことがあるんだろうね。全課題を終えて卒業したばかりでさ。彼の担当がマッキーで……だから、教え子の近くに行きたくて『情報課』を受けたってわけ」


 ボビーは黙って聞きながら、しばし思案に沈んでいた。


 そんな様子をよそに、ヒューイが少し前のめりになって言う。


「それでさ。人事課か総務課に、誰かそいつの事を分かる奴がいないかなと思って」


 ボビーは大きくため息をつき、腕を組んだ。


「それじゃ何か? 誰かに手を回して、今度は『そいつの部署』に行くとでも言うのか?」


「そういうこと」


 ヒューイがようやく口元をゆるめた。

 マーカスも肩をすくめて言った。


「知り合いは多いけど、今どこに配属されているかまでは把握してなくてね」


 ボビーは肩を落としながら、半ば呆れたように言った。


「だから。日頃から人付き合いしろって言ってるだろう」


「教育課じゃ無理。学生(育成要員)相手だしな」


 ヒューイが当然のように返し、マーカスが付け加える。


「PCなら24時間付き合えるけどね」


 それにはボビーも苦笑した。


「まったく。そうだな……総務だとディック。人事だとケントくらいかな」


 その名前にヒューイが敏感に反応した。


「ケントか……今どこ?」


 ディックとケントはヒューイ達がSISにいた時の同期だった。


「配属係にいるよ。マッキーの配属が決まったってことは、たぶんケント達の仕事かもな」


 その言葉にヒューイとマーカスは視線を合わせた。


 その様子を見ながら、ボビーは静かに尋ねた。


「でも、どうして『そいつ』なんだ?」


「そいつね。正規の1000題と改訂分の300題くらいやったんだよ」


 マーカスがボビーをみて説明した。


「どういう事だ」


 向き直ったボビーにヒューイが説明を続けた。


「俺たちがやった改訂分のも解いたのさ。マッキーが、これだけ頑張る奴なら力になりたいって……」


「それで『情報』受験か……。あいつらしいな」


 ボビーは口元をわずかに緩めてつぶやいた。


「マッキーが、外勤を覚悟してまで行きたがった場所だから」


 その選択に込められた意味が、ヒューイには十分だった。


「せめて、あいつの夢くらい……俺たちが引き継いでやりたくてさ」


 ヒューイはそう言うと遠くを見つめた。



 しばし沈黙が続き、やがてヒューイがぽつりと漏らした。


「長いようで短かったな、俺達のプロジェクト……教材改訂も、あと1ヶ月で終わりだよ」


 ヒューイはそう言ってカップのお茶を一気に飲み干し、カウンターにカップを置いた。


「……もっといろんな事やりたかったな……あいつと……」


 ヒューイの言葉に答える者はいなかった。


 ボビーは、空になったカップに静かにジャスミン茶を注ぎ足した。


「とりあえず、一度ケントのところへ行ってみようぜ」


 マーカスがヒューイに笑いかけた。


 ——マッキーが最後まで気にかけた男。


 チームの皆で見守った彼を確かめに行くことに、ヒューイは言葉にならない期待と、かすかな不安を抱いていた。

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