第36話 ペトリコール
雨が降っている。
傘をささずに歩くには少し辛くて、けれどゲリラ豪雨のような、攻撃力の高い振り方でもない。
語彙力がある人ならば、詩的な表現を思いついたかもしれない。
雨音をBGMにして、肌に落ちてくる水の粒なんかないものであるかのように。
屋根がある安全な家の中にいたのなら、きっとこの雨は、美しいだけのものだった。
せめて傘を持っていたのなら、風景に溶け込めて、多少のわずらわしさを持ちつつもやり過ごせていたはずだった。
アスファルトから雨が降ったとき特有のにおいがただよってくる。
私は髪も服もかばんも、あらゆるものが濡れている。
帰る場所があるなら、きっと走る。目的地まで向かって。
だけど私にはあてがない。
ただ決められた時間をつぶして、それから家に帰るしかない。
誰もいないことはわかっている。それでも私が足を向けたのは、ここだった。
水たまりに電柱に取り付けられた街灯の光が反射して光っている。
真っ白の光が降っている雨を照らしている。
どこかの家の雨どいから水がでてくる音が聞こえる。
私のサンダルが水たまりになりつつあるところをパシャリと踏んで、水が跳ねる。
電気のついていないノボリの建物。
私は一段上がった玄関ポーチに足を乗せ、壁にもたれかかった。
雨が降っている。
近くの家から明かりが漏れて、アナウンサーがニュースを読む声が聞こえる。
ここが路地裏でよかったと思う。ずぶ濡れの私を見とがめる人はいない。
雨が降っている。
今持っているもので、乾いているものなんてない。
警備会社の類のシールは一切貼っていないノボリの建物。
そっとドアノブを握って、引いてみる。
ガッ、と鈍い音とともに感じるひっかかり。
当たり前だ、鍵は閉まっている。
けれど雨に打たれないだけありがたい。
暗がりで、ふう、と息をつく。
服は肌にはりついている。足元もぐしゃぐしゃだ。かばんの中のテキストはきっと濡れている。ポケットに入れっぱなしのスマホは、防水だから無事かもしれない。
――もう、疲れてしまった。
服が汚れるのもいとわずに、ずるずるずると、その場に座り込む。
ぽたりと毛先からしずくが落ちる。
お尻には冷たくて固い感触がある。
ああ、生きている。
まだ生きている。
独りぼっちで暗がりで、迷子のまま動けないでいる。
パシャっ、タッ、タッ。
近くで誰かが歩く音が聞こえる。
パシャっ。タッ、タッ。
心なしか近づいている気がする。この路地裏沿いに住んでいる誰かだろうか。
見つかってしまうと嫌だなあ。今さら動く気力もないし、隠れられるところはない。できるのは、ここで息を潜めていることくらい。
どうか通り過ぎてしまいますように。
私はゆっくりと膝を抱え。顔を伏せて目を閉じた。
パシャっ。タッ、タッ。……パシャっ。
足音が止まった。
人の気配を感じ、目だけ開けてみる。暗い色のスニーカーが見えた。つま先は、こちらを向いていた。
街灯の下に、誰かが一人立っている。
見つかってしまった。もうどうでもよかったけれど、ゆるゆると顔を上げていく。
暗い色のテーパードパンツ、白いTシャツ。
若い男性のようだった。
「――もり、かわ、さん?」
ビニール傘が滑り落ち、路地裏に透明な花が咲いた。
「しみ、ずさ」
「どうして――!」
清水さんは私に駆け寄った。
「なにが……警察、あと家族に――」
「呼ば、ないで」
かすれた声で、私はたった一つの願いを口にした。
警察も、親も。
ここにはいらない。
「大丈夫です。ここに来る途中で、雨に濡れた、だけなんです」
清水さんの背中の向こうで、透明な花が濡れている。
清水さんの顔は、逆光になってよく見えない。
「信じて、いいの?」
私は緩慢にうなずいた。
「――不審者やら、変質者やらとトラブルになったわけじゃない?僕に言いにくいなら、友達でも、他に信頼できる人でも、かわりに、連絡するから――」
「誰も」
必死に声を絞り出す。
「呼ばないでください……」
誰に何を話すと言うのか。誰に迎えにきてもらうというのか。
雨が降っている。
喉の奥が熱くなる。
「犯罪とか、そういうのじゃ、ない、ので、」
言葉が続かない。これ以上話すと、こらえていたものがあふれてしまいそうだ。
清水さんは私から離れた。
ポケットから鍵を取り出し、もどかしいように鍵穴に入れ、力を入れてまわす。
扉を開けて二秒。玄関に電気がついた。
「入って」
中から声がする。
「でも」
「このままここには放っておけない」
「清水さんの、傘」
まだ落ちたままで、濡れている、傘が不意に、見えなくなった。
清水さんが玄関から出てきて、私の腕をつかんで、立たせて、玄関に引っ張り込んだのだ。
上がり框に座らせられて、清水さんは外に出ていき、濡れた傘のしぶきを振り払うこともなく、簡単にとじて玄関に入れ、ドアを閉めた。
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