この関係の、代名詞

香枝ゆき

第一章 先生

第1話 夜深く

「先生、デート楽しいね」

 私がそう言うと、清水先生は眉をひそめる。

「その呼び方、外ではやめて?」

 暗い色のメタルフレームの眼鏡越しに、瞳が揺れ動いていた。

「それに、これはデートじゃなくて、外に出る訓練だからね?」

 はーい、と小さくつぶやいて、私たちは自販機で買ったジュースを飲んだ。

 あこがれた人は、四歳年上のお兄さん。

 そして、先生だ。


 電子レンジがほのかに光っている。ラップをした皿が温められている。今日の夕食で私の分が取り分けられていたものだ。

 夜、寝静まっているとはいえ、豆球のオレンジで動く分に支障はない。

 減っていく数字を見て、私はゼロになる前に扉を開けた。

 温め終わりましたよ、と知らせてくれるアラームは、私が起きていることをばらしてしまう。

 予防策をとれたことに安堵して、ダイニングテーブルに座り、私はあたたかい肉じゃがに手をつけた。

 けれど、廊下から階段がきしむ音がした。

 リビングダイニングと廊下を隔てているはずの引き戸は開け放されている。

 父か母か。どちらかが下りてきたのだろう。トイレに行くためか、水を飲むため。

 トイレに行くなら、リビングダイニングを通る必要はない。廊下から一瞥しても、見えない位置に私は座っている。

 ――トイレのドアがきいと開いた。

 このまま息を殺して潜んでいる。

 食事をする手を止めて、こちらに来るなと精いっぱい念じて。

 水を流す音がして、ドアが閉まって、スイッチがパチンと押されてトイレの電気が消える。

 そのまま階段を上がってくれたらいいのに、なぜだかぬっと、母が部屋に入って来た。

 よれよれのパジャマを着た母は、私を一瞥しても、表情は変わらない。

「あんた、そろそろ外にでーへんの?」

 私は答えられない。

「学校行けとは言わへんからさ、せめて引きこもり状態からは脱してほしいわけ」

 唇を噛みしめる。黙ってこの場をやり過ごす。

「……塾やったら行く?」

「い、行かへん……!誰とも会いたくない……!勉強面が不安やって言うなら、家庭教師にして、お願い!」

 本気の拒否に、母はため息をつく。

「勉強面も不安やけど、家から出てほしいねんな」

 そうは言われても、考えてほしい。

 待宵市まつよいしにある我が家は最寄りの夕凪駅に15分でアクセスできる立地にある。駅前には大手塾も多い。休日にはにぎわうショッピングモールだってあるし、二駅先の待宵駅近くには、中高生世代向けにつくられた交流施設『まつよいユーススペース』 もある。

 きっと母としては、それらのどこでもいいから外に出てほしいのだ。

 けれど、市内には公立の高校が6校ある。

 私はずっと地元の公立に通ったのだ。塾なんて、同年代が詰め込まれるところは学校とかわらない。同じ中学だった人や、同じ高校の同級生、同じクラスの人もいるかもしれない。

 絶対に、会いたくない。今の私を誰にも見られたくない。

「じゃあ、同級生も先輩も後輩もいないような、マンツーマンやったらいいわけ?」

 母の中では、私が外出のために塾に行くことは決定事項のようだ。

 最低最悪を選ぶくらいなら、なんか嫌、なほうを選んだ方がまだましだ。

「それなら、まだ……」

 行くとも行けるとも言ってない。

 けれど私の返答に母は満足したようだった。

 私のそばを通り、コンロに置いているやかんから、麦茶をコップに注ぐと、一気に飲む。かたん、とコップを置いて、表情の読めない顔を、私に向ける。

「じゃ、手続きしとくから。決まったらまた言うわ。……食べたらお皿、洗っといて

 」

 母はまた、階段を上がっていった。

 カチコチと、壁にかかった時計の秒針がいやに響く。

 心臓がどきどきする。

 こんなときでも、おなかは鳴る。

 私は肉じゃがに箸をつけた。

 ほんのすこしだけ、温度がなくなっていた。

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