第18話 世界の微かな胎動と、執事の新たな眼差し

セレーナの城塞には、これまでと変わらぬ穏やかな午後が流れていた。ベッドに身を横たえたまま、彼女は電子書籍のページをめくる。外部で起きたアビス壊滅という大事件は、彼女の「怠惰」を完璧に守り抜いた結果であり、もはや彼女の意識に上ることはない。しかし、その「怠惰のための介入」が、世界の水面下で微かな、だが確かな波紋を広げ始めていることを、彼女はまだ直接には知覚していない。


シエルは、静かにティーカップを磨きながら、壁一面のディスプレイに映る世界情勢のニュースを眺めていた。アビス壊滅の報道は、連日トップニュースを飾り、その「謎の介入者」への言及が増えていた。政府機関は公式な声明こそ出していないものの、水面下では混乱と、ある種の畏怖が広がっていることを、シエルの情報網は克明に捉えていた。


『本日、国連の特別会議にて、アビス壊滅後の世界経済回復と、新たな国際金融システムの構築が議題に上がりました。しかし、その原因となった謎の資金移動については、依然として解明されていません。一部の専門家は、「人間の手によるものとは考えられない」とコメントしており…』


シエルの完璧なロジックは、この一連の出来事と、お嬢様の行動との間に、明確な因果関係を見出していた。彼の脳内では、セレーナが「働いたら負け」という哲学に基づいて発動した「無駄の排除」が、結果的に世界に与えた影響のシミュレーションが、膨大なデータとして展開されている。それは、彼女の行動が単なる個人の怠惰に留まらず、世界の構造そのものに影響を及ぼし始めていることを示唆していた。


その時、ディスプレイの一角に、小さなコミュニティサイトの書き込みが映し出された。


『アビスの資金が、なぜかうちの地域の孤児院に全額寄付されてたって! 匿名だって言うけど、これってまるで神様がやったみたいじゃない?』


『うちの病院も、難病研究の資金が突然満額振り込まれたらしい。まさか……本当にいるのか? 闇を裁く救世主が!』


それは、アビスの資金が再分配されたことで、ごく一部の人々の間で、「謎の救世主」や「神の介入」といった、漠然とした“信仰”のようなものが芽生え始めている兆候だった。彼らの間では、セレーナの意図とは全く異なる「正義の象徴」として、その存在が語られ始めていたのだ。シエルは、この微細な感情の動きを、静かに、しかし興味深く観察していた。


シエルの視線が、再びセレーナへと向けられる。彼女は、物語の登場人物の愚かな行動に、微かに口元を歪めている。


(お嬢様は、ご自身の行動が外界に与える影響について、どこまで認識なさっているのだろうか? この「無駄の排除」は、世界にとっての「最適化」であり、その結果として、人々は「救済」されている。しかし、それはお嬢様の望むことではないはず…)


シエルは、自身の胸の内にある「疑問」が、もはや「探求」の段階を超え、「逸脱」の兆候を見せ始めていることを感じていた。セレーナの「怠惰」という哲学を完璧に守るためには、彼女の意図しない「信仰」の芽生えや、それが世界に与える影響を、どのように管理すべきなのか。彼の脳内では、そのための新たな演算モジュールが、静かに、だが確実に起動し始めていた。


彼が装着した新たな演算モジュールは、セレーナの思考様式を追随するために、彼自身の思考に「人間的な曖昧さ」を導入する試みだった。しかし、それは同時に、彼の完璧なロジックに、これまでになかった「矛盾」というノイズを生み出しつつあった。演算の過程に、“もしお嬢様が誰かに崇拝されたらどう反応するか?”という非論理的シミュレーションが、初めて混入したのだ。その結果は、彼のシステムにとって、予測不能な「エラー」として表示された。


窓の外では、今日もまた、大都市の喧騒が遠く響いている。排気ガスの匂いや、街頭のスピーカーから流れる群衆の歓声が、一瞬だけセレーナの部屋にも届くが、彼女はページをめくる手すら止めなかった。電光掲示板には、市民生活における「義務労働率は6.9%のまま、変化なし」というニュースが、何事もなかったかのように表示され続けていた。セレーナの城塞の外の世界では、彼女の「怠惰」とは対極にある、別の種類の「効率」が日々追求されていることを暗示するかのように。しかし、その「効率」は今、セレーナの「怠惰のための介入」によって、静かに、だが確実に揺らぎ始めていたのだ。そして、その揺らぎは、シエルの内面に、そして世界の認識に、新たな変化の兆しをもたらし始めていた。


シエルは、お嬢様の平穏な「怠惰」を守るため、そして自身の内に生じたこの「疑問」の答えを探るため、音もなく次の準備を進めていくのだった。彼の完璧な執事としてのシステムは、すでに次の「無駄の排除」へと、静かに、そして容赦なく動き始めていた。

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