第3話 国家一等祓魔調伏官
あれから五年が経った。
時の流れは、私の心に僅かな澱を落としながらも、確かな変化をもたらした。
年号は
私の周りで最も顕著な変化は、秋房の躍進だろう。
この世界では、呪術師や陰陽師、法術師は特権階級だ。私の生きていた平安時代もそうだったが、真に力を持ち、その責任を全うできる者にのみ、その栄誉は与えられる。ただし、その重みに耐えかね、あるいは私利私欲に走る者も少なくないのが常だが。
秋房は私の指導を愚直なまでに守り抜き、驚くべき速さでその腕を磨き上げた。この時代の陰陽師は――あまりにも脆弱だ。
秋房が弱いのではない。むしろ彼はこの時代においては異才の部類に入る。問題は、全体のレベルが著しく低下していることだった。
その理由は、皮肉にも呪術の「発展」にある。
かつて呪術は、血筋と天賦の才に恵まれた者が、気の遠くなるような研鑽を積んで初めて扱える秘術だった。だが、科学の発展――それは呪術の、あるいは世界の理の別側面とも言える力――により、呪術は誰でも簡易に使える「技術」へと変貌した。
例えば、炎の術は、選ばれし者だけがその身を焦がす覚悟で放つものだったが、今や科学は燃料と装置で誰でも容易に炎を生み出す。
呪術と科学の融合は、呪具を洗練させ、多くの者が呪術を扱えるようになった。それにより、国の霊的防護はかつてないほど強固になったと、人々は安堵している。
だが、その代償はあまりにも大きかった。
全体のレベルは平均化され、かつて天を衝くほどに高かった上限は、見る影もなく引き下げられた。
命を懸け、身を削るような修練を積む必要が薄れたのだ。「私がやらねば国が亡ぶ」という切迫感は、「私ができなくとも皆で守れる」という甘い幻想に変わった。
平和。だが、底が浅い。それが、この霊和の時代なのだ。私には、その平和が砂上の楼閣のように危うく映る。
そんな歪んだ時代に、平安の世から転生した私が、秋房を鍛え上げた。
彼は素直で、努力を惜しまず、そして確かに才能があった。正しく導けば、私の目から見ても、真の一人前になれると確信していた。
平和な時代とはいえ、邪霊は決して消滅せず、呪術を悪用する者も後を絶たない。むしろ、誰でも呪術を使えるようになったがゆえに、その悪用は以前にも増して巧妙化し、蔓延している。
そこで、実力と実績を国家に認められた者が、邪霊や悪党を調伏する制度が生まれた。
彼らは国家に貢献し、貴族の地位を得る。秋房は29歳の若さでその頂点に上り詰めた。
国家一等祓魔調伏官、芦原秋房男爵。
契約とはいえ、その成長は息子として誇らしいものである。
◇
「というわけで、急な仕事でピクニック行けなくなった! いぇーい!」
秋房がわざとらしく明るい声を張り上げ、すぐにその顔をくしゃっと歪める。
「遺影ぇ~い……」
魂が抜けたような、地獄の底から響くような声で泣き出した。
「うわぁぁん! ひどいよ、みんな楽しみにしてたのに!」
その姿は、まるで駄々をこねる子供のようだ。しかし、その根底には、彼なりの家族への愛情と、重責からの解放を願う切実な思いが透けて見える。
事の始まりは先日、陰陽寮の使者が訪れ、緊急任務を告げたことだった。
「よし、俺、調伏官辞める。家族サービスに余生を捧げるぜ」
「やめてください、父上。父上には我々を養う義務がございます」
「だってよぉ!」
秋房が嘆くその声には、本心と建前が複雑に絡み合っていた。
「確かに俺、強くなって出世して稼ぎも増えたけど、こんなことになるとは思わなかったぜ」
「芦屋道満の指導を受ければ、こうもなりましょう。この時代の呪術の低さを想定せぬ私にも責任はございます」
自嘲めいた言葉が漏れる。鍛えすぎてしまった、というよりは、この時代の脆弱さを見誤っていた、というべきか。
秋房がふと表情を変え、静かに、しかし真剣な眼差しで私を見る。
「なあ、斗真。伝説通りの、いや、伝説以上の大物だよ、お前は。けど、俺にはわからねえ。お前、何を求めてるんだ?」
それは義父としての言葉ではなく、一人の陰陽師として、そして私の弟子としての、魂の問いかけだった。
「十年前に申し上げた通り、元服までの仮初の居場所を。それ以上でも、それ以下でもありません」
「……わかったよ」
秋房は諦めたように深くため息をつき、再び父親の仮面をかぶる。その仮面の下に隠された、彼の複雑な心境が私には見て取れた。
これが私と秋房の契約。私の術の指南と引き換えに、彼は仮初の家族を演じる。もっとも、彼の演技は時に過剰で、その熱演に苦笑することも多々あるのだが。
「あー、めんどくせえ……」
「さほど嫌なのですか、父上」
「だってよ、数年前まで一般人だった俺が、なんで藤原の姫様の護衛なんかしなきゃなんねえんだ。公爵家だぜ、オイ。それも、あの藤原だぞ?」
「それはまた……」
藤原家。平安の世で栄華を極め、時の帝すら意のままに操った大貴族。道長の歌、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」は、その傲慢なまでの権勢を今に伝える。
霊和の世でも、源平藤橘の四大公爵家として、彼らは依然として頂点に君臨している。
その姫の護衛は、並大抵の重責ではない。元平民の秋房が、心の底から逃げ出したくなるのも無理はない。
(……まさか、な)
私の胸に、漆黒の想像がよぎる。
藤原の姫の護衛に、何の地盤もない元平民の秋房を充てる。それはまるで、彼を破滅へといざなうための、巧妙な罠としか思えなかった。
「まさかとは思いますが、父上……」
秋房の目が揺らぐ。彼は昼行灯のように振る舞ってはいるが、決して無能ではない。むしろ、その直感は鋭い。無能であれば、私がとうの昔に見限っている。
「父上、これは罠かと。藤原家が父上を試すか、あるいは排除しようとしているやもしれません。あまりにも不自然です」
秋房が苦々しげに眉をしかめる。その表情に、彼の内なる焦りが垣間見えた。
「やっぱそうか? なんか変だと思ったんだよ。元平民に高位貴族の護衛なんて、普通任せるか?」
「然り。おそらく、父上の実力を妬む者が、藤原家を巻き込んで仕組んだのでしょう。護衛に失敗し、姫に万が一の傷でもつけば……」
「首が飛ぶな、物理的に。……よし、辞めるわ」
「それが許される状況ではございますまい」
任務を拒否すれば、貴族位を剥奪され、一族は路頭に迷うだろう。それどころか、藤原家に、ひいては国家に叛意ありと見なされかねない。まさに、進むも地獄、退くも地獄だ。
「――九重」
迷わず、私の古き式神の名を呼んだ。
「お呼びですか、斗真様!」
狐耳と狐尻尾を揺らす少女が現れる。千年の時を超えて、私に付き従う忠実な式神だ。
「父上に付き従え。決して目を離すな」
「……またでございますか」
九重が不服そうに、しかし諦めたように耳をぴくぴくさせる。
この時代、十歳の私がこのような強大な式神を持つのは、あまりにも不自然だ。その事実が露見すれば、要らぬ疑いを招き、私の過去を探られる危険性がある。
故に、九重は表向き、秋房一等調伏官の式神として振る舞っている。忠義深い彼女には不満のようだが、秋房とはなんだかんだで上手くやっている。
「承知いたしました。必ずお義父様をお守りいたします」
「頼むぞ、九重」
彼女の頭を撫でると、「ふにゃあ」と、警戒心のかけらもない無邪気な笑みを浮かべる。その温かさが、私の心を僅かに和ませた。
「じゃあ、行ってくるぜ。ったく……」
秋房は深いため息をつき、慣れない戦闘衣装で重々しく立ち上がる。その背中には、憂鬱と覚悟が混じり合っていた。
「くれぐれもご油断なく、父上。その任務は、貴方にとっての試練であると同時に、私にとっても試金石となりましょう」
「わかってるよ。けど、藤原の連中といると肩凝るんだよな。なんか、空気が重いっていうか……」
最後の最後まで愚痴をこぼしつつ、秋房は九重を従えて、運命の渦へと足を踏み入れた。
(藤原家が関わるとなれば、単なる嫌がらせでは済まぬ。彼らの意図は、もっと深く、暗い)
藤原家は、陰陽道の深淵なる知識と、国家を左右する絶大な影響力を今も保持している。彼らの命令一つで、人の命運など容易く捻じ曲げられるのだ。
私の転生を、かつて道長の記した書が予見していた。一般人が閲覧可能な部分には簡略に記されていたが、私の生家がそれを知り対策していた以上、藤原家がその真実に辿り着けば、私の存在は危うくなる。
絶対に、露見してはならぬ。この時代の秩序を乱し、私の目的を阻害することになる。
◇
「おにいさまー! ピクニック、ほんとに行けないのですか?」
机に向かい、複雑な術式を記していた私の脳裏に、遠く離れた妹、昴の声が響く。
先日、術式通信で送られてきた、無邪気な言葉。九歳になっても、彼女の舌足らずな声は、私にとって唯一の安らぎだった。
「昴、父上の任務ゆえ仕方ありません。次の機会を楽しみにしましょう」
「うー、つまんなーい! おにいさま、昴のこと忘れないでね!」
「忘れませんよ。昴の術、だいぶ上達したな。見事です」
「えへへ! おにいさまにほめられました! 早くおにいさまと術の練習したいです!」
あの屈託のない笑顔を思い出し、胸の奥に小さく、しかし確かな温かさが広がる。この平和な日々を守るためにも、私は動かねばならない。
さて、私は目の前のパソコンに、古の術式を刻み込んでいく。科学の利器は、呪術の新たな可能性を広げる、実に便利な道具だ。
唯一の懸念は、インターネットなる、世界を繋ぐ網だが、回線を絶った独立したパソコンならば問題ない。
呪術がこれほどまでに簡易に広まったのも、このような道具があればこそ。平安の世とは、まさに隔世の感がある。
「さて……藤原の動きをどう読むか。そして、どう動くか」
願わくば、この一連の騒動が、平穏に過ぎてほしいものだ。だが、私の勘は、それが叶わぬことを告げていた。
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