終わる世界のミッドポイント④――青


 探している薬を処方されているはずの患者たちの病室を回り終えたが、薬は一錠も見つからなかった。他の薬はそれなりに残っていたから謎なのだが、今はそれどころじゃない。白鷺が「早く鉄塔にいる人たちにこのことを知らせて、別の場所まで探しにいかなくては」と不織布のツナギを着たまま走り出したからだ。追いかけないワケにもいかず、これでオレたちも片足どころか頭のてっぺんまでズブズブと厄介ごとに突っこんでしまった形となった。

 外はまだ雨が降っていた。「こっちだ」と言う白鷺についていくと、川岸にボートが停泊している。前と後ろに操縦装置とエンジンがついている以外は空っぽの四角い箱のような武骨なボートで、それほど大きくはないものの押しこめば五十人は乗りこめそうだ。実際はそんなにすし詰めにしたら沈んでしまうだろうが、それでもこのボートは非常時に患者の避難や物資の運搬をするためのものだったらしい。白鷺は数回ほど足りない物資を町に探しにいく際に使用したと言う。

「とりあえず川を渡るぞ。川を下れば鉄塔まで行けるんだが、燃料が少なくてな。こんなことになるなら、ちゃんと燃料を確保しておけばよかった」

 離岸の準備を進めながら、白鷺が臍を噛む。早く研究の続きがしたくて、燃料を探す手間を惜しんだに違いない。

 白鷺に搭乗を促され、ミィを先に行かせる。自分が乗りこむ際、川上に視線をやると繋いであったゴムボートの黄色が見えた。ここはあの夫妻と別れた場所から一キロほど先の対岸だろう。あれから三時間は経っているし、いくらあの二人の移動が遅くても最早追いつけそうにない。やはり鉄塔下まで行かなくてはならないようだ。

 小さく吐いたため息はエンジン音に搔き消された。白鷺の操縦で向こう岸を目指す。隣で見ていると、デジタル化されていて案外簡単そうだ。ゲーム画面とそう変わらない。

 視線を操作パネルから川面に移す。ゴムボートで移動したときは必死で気付かなかったが、やたらといろんな物が流れていた。ペットボトル、木の枝、サッカーボール。この辺はまだ序の口で、丸ごとの自転車や冷蔵庫までが浮き沈みしながらどんぶらこと流されていく。

 ――ゴムボートに乗ってたときにぶつかってたら、ひとたまりもなかったな。

 今更ながら冷たい雨が骨身に染みてきて、背筋を小さく震わせると対岸が見えてきた。まず目に留まったのは、ぼんやりとした紫色の光だ。ボートより少し川上のほうにいる光がフラフラと川へ近づいてきている。

 煙るような雨で視界が悪い。飛びこんでくる雨しぶきに目を眇めている間にもボートは岸に近づき、光の正体がはっきりしてきた。――人だ……!

「おい、どうした!? 大丈夫か!」

 気付いた瞬間、白鷺が相手に向かって大声で怒鳴った。声は届いたはずなのに、歩みはとまらない。あの光は活性化した紫心菌だろう。顔から腹にかけてべったりと付着している。手や腕にもついているようだ。死にかけているのか? その割には光が弱いけど――。

 ボートの縁から身を乗り出して凝視する。それしかできずにいると、川へ進んだ人物はふくらはぎ辺りまで入水したところで流れに足をとられ倒れこんだ。すぐさま濁流に呑まれ、こちらへ向かって流されてくる。

「くそっ」

 悪態の声と共にボートが傾いた。オレの隣、ボートの縁に立った白鷺が下を指差して、足裏で強く縁を蹴る。

「そこの浮き輪を頼む!」

 白鷺が川に飛びこむと同時に、先に入水していた人物がボートの前を流されていった。見えた顔は一瞬だったが間違いない、妻に『ゆーくん』とあだ名で呼ばれていたあの男だ。なんであの人がここに。鉄塔に向かってたはず。一緒にいた女の人は?

 疑問が脳内を駆け巡ったが、オレの隣でボートの側面に設置された浮き輪を引っ張っているミィに気付き、慌てて奪いとる。

 浮き輪に繋がっていたロープを腰に結んでいる間に、白鷺さんはなんとか男の側まで近づけたらしい。ボートのパネルを操作してみると、容易に操縦できた。しかし二人に近づきすぎて、スクリューが生み出す水流に巻きこんでしまいそうになる。反射的にエンジンを切ったら、二人同様ボートも川の流れに乗った。これなら距離が離されることはなさそうだ。

 二人に向かって浮き輪を投げる。白鷺さんが捕まった。しかし男は気絶しているらしく、そこから苦戦している。触ると溶けてしまうから服を掴むのだが、引っ張り上げようとするたびに川の流れに邪魔されて手が離れてしまう。

 そうこうする内に白鷺さんが力尽きて沈みそうになった。

「ああ……っ!」

 ミィの悲痛な叫びに背中を突かれたみたいに、気付けばオレはボートの縁から空中へ飛び出していた。着水の衝撃の中、必死に浮き輪を抱きしめて水面に浮かび上がる。

 浮き輪にしがみつきながら白鷺たちの側へ行こうとするも、背中が重くて油断すると仰け反りそうになる。最初は何か判らなかったが、リュックに入った大量の米粉やもち米が水を吸っているのだ。着替えの服もそうだが、雨で濡れないようビニール袋に入れていたのが仇になったらしい。これじゃ背中に石を背負っているのと変わらない。今は食糧より目先の命だ。

 リュックを手放し、白鷺たちの元へやってきた。浮き輪の浮力を利用して、意識のない男を側に流れてきた木製のドアになんとか乗り上げさせる。

 そこまではよかったのだが、気付けば今度は白鷺の姿が見えなくなっていた。

「そこ!」

 左右を見回すオレに声が降ってきた。川上のボートを見上げると、縁から身を乗り出したミィが水面を指差している。反射的に潜って手を突き伸ばしたら、濁流で視界なんてゼロだったものの、偶然濡れた紙のような感触が指に触った。鷲掴みにして力任せに引っ張り上げ、側で浮いている物の上に投げ出す。反動でオレは溺れそうになったが、藁をも掴む勢いでその何かの端に指を引っかけ、最後の力を振り絞って上半身を乗り上げさせた。

 しばらく何も見えず、何も聞こえなかった。やがて太鼓を鳴らすような振動と物音が聞こえ、それが自分の鼓動だと気付く。周りで渦巻いている濁流の音と、目の前で並んでぐったり横になっている白鷺と男の姿もぼんやり認識できるようになった。オレが凭れているのもドアの端らしい。

 これ――オレがやったのか。よくできたな、あんなこと。火事場の馬鹿力ってヤツか……。

 頭の隅で考えるが、身体が重く指先すら動かせない。

「えっと、これ、あー、そっちじゃない!」

 ミィの声が遠のいたり近づいたり、ふやけきった救急車のサイレンみたいに鳴り響いていた。多分ボートを操縦しようとしているんだろう。禄でもないことにしかならないからやめろと言いたいのに声が出ない。

 眼球だけを動かしてボートの青い側面を眺めていると、その向こうに黒くて大きなものが迫ってくるのが見えた。影? 壁? 目の焦点が合わない。状況が理解でき――……。

 突如衝撃音が響き渡り、そのショックで意識が覚醒した。クリアになる視界の先で、小さな白い物体が紙屑のように宙に飛び上がっている。流木だ。デカい流木がボートにぶち当たったんだ!

「ミィ……!」

 弱々しい水しぶきを上げて着水するミィに手を伸ばしたら、何か大きなものがその水面に薄く広がるように覆い被さった。同時に、声。

「サン太!」

 聞き覚えのあるその声に続いて、大きな水しぶきがふたつ上がる。

 嫌味なリア充野郎・緑川とゴールデンレトリバー・サン太のコンビはすぐにこちらまで泳いできて、オレたちの乗るドアを押し始めた。足先が川底に当たった瞬間、オレはまろぶように陸地に這い上がり川を見渡す。ボートに向かって二人の男がゴムボートを漕いでいた。んなもんどうでもいいだろ! お前らの目は節穴か!

「君の大切な子はそこだよ」

 再度飛びこもうとしたところで、隣から声がかかった。緑川は言うだけ言うとこちらに見向きもせずに、白鷺と男の乗ったドアを陸地に引き上げている。その向こうで、中年男が投げ網を手繰り寄せているのが見えた。

 駆け寄ると、網の中で濁流の茶色に染まったミィが藻掻いている。必死に網を引っ張ってやっと抜け出すと、ブルブルと頭を振って水滴を飛ばし、くしゅんと小さなくしゃみをひとつした。

「よかったな、ミィ。大好物の気持ちが味わえて」

 相変わらずとぼけた仕草をする猫娘に失笑しつつ、からかいの言葉を投げかけた。


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