第6話
深夜。
俺は、自室のベッドの上で、膝を抱えてガタガタと震えていた。
もはや、眠ることさえ恐怖だった。
眠っている間に、また雪乃が部屋に入ってきて、俺の身体に何かを埋め込むかもしれない。
千夏の信者が、窓の外で俺を讃える歌を合唱しているかもしれない。
この忌まわしいGPSで、美月が俺の寝言までチェックしているかもしれない。
息が詰まる。
壁が、天井が、どんどん迫ってくるようだ。
このままじゃ、本当に、おかしくなってしまう。
俺は、最後の理性を振り絞り、誰にも見つからないよう、猫のように足音を殺して部屋を抜け出した。
目的はない。ただ、この息苦しい牢獄から、たとえ一瞬でもいい、解放されたかった。
夜の学園は、昼間の明るく健康的な雰囲気とはまるで違う、不気味な沈黙に支配されていた。
雲間から覗く痩せた月の光が、長い廊下に、まるで骸骨の指のような、不気味な影を落としている。
遠くから、風の音か、あるいは誰かの啜り泣きのような、か細い音が聞こえてくる。
昼間の暖かさはどこへやら、冷たく湿った空気が、死人の手のように肌にまとわりつくようだ。
完全に、ホラーゲームのプロローグだ。
主人公が最初に死ぬやつ。
俺は壁伝いに歩きながら、校舎の奥まった一室に、ぽつんと明かりが灯っていることに気づいた。
『図書室』
まるで蛾が光に誘われるように、俺は、その扉に吸い寄せられた。
ぎぃ、と軋む音を立てて扉を開ける。
広大な、静まり返った空間。
天井まで届く巨大な本棚が、まるで巨人の墓標のように、整然と、そして威圧的に立ち並んでいる。
その圧倒的な静寂の中で、カリ、カリ、カリ、と、紙の上をペンが走る、乾いた音だけが、やけに大きく、不気味に響いていた。
音のする方へ、本棚の影から影へと移るようにして、慎重に進む。
そして、書架の開けた一番奥のスペースで、俺は、彼女を見つけた。
月島詩音。
彼女は床に座り込み、たった一本の蝋燭の、弱々しく揺れる明かりを頼りに、分厚いノートに何かを書きつけていた。
異常なのは、その周囲の光景だ。
彼女を中心に、おびただしい数の、同じデザインのノートが、まるで彼女を守る城壁のように、うず高く、天井に届かんばかりに積み上げられている。
その全てが、蟻が這ったような、びっしりとした文字で埋め尽くされているのが見えた。
「つきしま、さん……? こんな夜中に、何して……」
俺が声をかけると、彼女は、まるで油の切れたブリキ人形のように、ぎこちない動きでゆっくりと顔を上げた。
蝋燭の光に照らされたその顔は、血の気が引いて人形のように白く、眼鏡の奥の瞳だけが、まるで鬼火のように、爛々と底光りしていた。
「……ああ、拓海さん。ちょうど、あなたのことを記録していたところです」
「記録って……何を……」
「あなたの全てを。あなたがこの世に生を受けてから今日までの十七年間、六千二百五十日と八時間。そして、この世界に来てからの、一挙手一投足、その全てをです」
彼女は、積み上げられたノートの一冊を、まるで我が子をあやすかのように、愛おしそうに撫でた。
「あなたの呼吸、瞬きの回数、心拍数の変化、脳波のパターン、発した言葉、見た夢。あなたが摂取したカロリーと、排出した老廃物の量。その全てを、私は記録しています。だから、あなたは永遠に忘れられることはない。たとえあなたの肉体が滅び、魂が消え去っても、この完璧な記録の中で、あなたは永遠に生き続けるのです。私が、この記録と共に、永遠にあなたを愛し続けるのですから」
カリ、カリ、カリ……。
詩音は再びノートに向き直り、人間業とは思えない、機械的な速さでペンを走らせ始める。
その瞬間、俺の脳内で、何かが決定的にぷつりと切れた。
これは、恋愛ごっこなんかじゃない。
彼女たちの「愛」は、俺がゲームで学んだどんな愛とも違う。
これは、本物の、底なしの、救いのない狂気だ。
俺は、声にならない絶叫を上げ、踵を返し、その場から夢中で逃げ出した。
◇
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
どこを走っているのかも分からない。肺が張り裂けそうだ。
ただ、あの狂気から、一秒でも、一ミリでも遠くへ逃げたかった。
追いかけてくる気配はない。だが、学園全体が、一つの巨大な生き物となって、俺という異物を消化しようと、蠢いているような錯覚に陥る。
無我夢中で曲がり角を曲がったところで、一つの古びた扉が目に入った。
『旧音楽室』
普段は「危険」という札が貼られ、固く鍵が閉ざされているはずの埃っぽい部屋。
その扉が、なぜか、少しだけ、本当に指一本分だけ、開いていた。
俺は、最後の力を振り絞り、その隙間に身体を滑り込ませた。
埃と、古い木の匂い。カビの匂い。
壁には、こちらを睨みつけるベートーヴェンの肖像画。窓から差し込む月の光が、白いカバーのかかったグランドピアノを、まるで巨大な棺のように、ぼんやりと照らしている。
背後でバタン、と大きな音を立てて扉を閉める。
直後、ドンドン、と扉を叩く音と、ヒロインたちの声が聞こえてきたが、不思議なことに、彼女たちは扉を開けることができないようだった。
やがて足音は遠ざかり、再び静寂が訪れる。
ここは……安全だ。
なぜか、そう確信した。
彼女たちの支配が及ばない、唯一の聖域。
全身の力が抜け、俺はその場にへたり込む。
束の間の、しかしダイヤモンドよりも貴重な平穏。
その時だった。
部屋の隅に打ち捨てられていた、旧式のデスクトップPCのモニターが、ふっと、独りでに起動した。
緑色のカーソルが明滅し、一行のテキストが、ゆっくりと、しかしはっきりと表示される。
『ここは安全地帯だ。奴らは古いプログラムの仕様上、ここには入れない』
『しかし時間は限られている。お前は、この狂った箱庭から脱出しなければならない』
『―― S.Sawai』
S.Sawai。
この世界に来る直前、俺がプレイしていたゲームのクレジットで見た、あの開発者の名前だ。
俺は、暗いモニター画面に映る自分の顔を見つめた。
そこには、恐怖と混乱と、そしてほんのわずかな生存本能に歪んだ、見知らぬ少年の顔があった。
絶望の闇の中に差し込んだ、一筋の蜘蛛の糸。
しかしそれは同時に、この「日常」という名の牢獄が、やはり紛れもない現実であることを証明する、残酷な光でもあった。
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