挿話 : 夕映えの話と、月の気配

 雨は夜更けを待たずに止み、庭の空気は、どこか洗い清められたような静けさを湛えていた。


 離宮の奥。


 すだれ越しに濡れた庭が薄く光る頃、天陽は静かに帝のもとを訪れていた。


 杯がふたつ。灯りがひとつ。余計なもののない席に、ふたりの若き政の核が向かい合っている。それは常の謁見でもなければ、政を論じる席でもない。ただ、幼き日からの縁がゆるやかに続く、心許せる時間。


 「……庭にいたんだな」


 帝が杯を手にしながら、ぽつりと口にする。雨上がりの風が簾を揺らし、外の香をかすかに運んでくる。


 天陽は頷いた。言葉は少ないが、その中に確かなものがあった。


 「……良い庭だった。音のない音がある。沈黙の中に、目を凝らせば見えてくるものがあった。……まるで、私の妻のように。まあ、彼女と、その彼女が手がける庭が一番だが」


 帝は唇をわずかにほころばせた。


 「優夜姫か。——良き妻を娶ったな、天陽」


 静かな声だったが、そこには確かな敬意と、どこか遠い懐かしさを含む響きがあった。


 天陽は黙したまま杯を見つめていたが、やがて静かに言った。


 「彼女は“目立つこと”をしない。だが、確かに“在る”んだ。気づけば、庭の気配が変わっている。部屋の香が変わる。女官たちの咳が減っている。……あれは意図してやっている。だが、それを気取らせない」


 「言葉を選ぶなら、『淡く光る者』、か」


 帝は天陽の言葉に呼応するように言った。そして、まるで独りごとのように続ける。


 「政の場では、声を張る者ほど目立つ。だが、世を潤すのは、目立たぬ雨や、香のような存在かもしれぬな」


 「……ああ」


 天陽の声には、珍しく確信があった。


 「そして——そういう者こそ、気づける者が少ない。けれど、気づいた者にとっては、代えのない光になる」


 杯に映った灯が揺れる。その小さな光の奥に、雨の庭で静かに微笑む優夜の姿が浮かぶ。


 帝は微笑を消さず、ふと目を細めた。


 「……この国に、足りていなかったものかもしれんな」


 「透明で、触れようとすれば消えてしまいそうなもの。でも、確かにそこに“息づくもの”。その存在が、今、政にも後宮にも、静かに沁みてきている」


 外では、雨後の夜風が庭を撫で、濡れた石畳に月が映っていた。

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