第17話
片山中学校・国語教師、永瀬 圭介(ながせ・けいすけ)、34歳。
黒縁メガネに静かな口調、生徒からの信頼も厚く、授業も丁寧だと評判だった。
だが、放課後の職員室。
永瀬はある女性教師と、誰にも見られぬようにLINEを送り合っていた。
相手は、既婚の音楽教師、佐藤 彩音。
「今夜……うち、来る?」
「うん、旦那、出張だから大丈夫」
永瀬には、かつて結婚を考えた恋人がいたが、破局して以降、心のなかには空洞があった。
彩音と話すときだけ、それが埋まるような気がしていた。
「好きって言われると……教師としてじゃなく、人として価値がある気がするんだ」
だが、それはやがて職場にも染み出した。
生徒が提出した作文――「大人って、みんな嘘つきに見える」
その一文に、永瀬の心はざらりと波立つ。
放課後の教室で、男子生徒に言われた。
「先生、最近ぼーっとしてません? なんか、前とちがう」
その言葉が、妙に刺さった。
(……何やってんだ、俺は)
その夜。
永瀬は、校舎の屋上に一人でいた。タバコの煙が風に流れる。
(彩音に会えば……また救われる気がする)
そう思ったとき、背後から草履の音が響いた。
「――“偽りの愛”に寄りかかる者よ。お主は、何を見失った?」
振り返ると、そこに立っていたのは――宮本武蔵だった。
「……なんだ、君は」
「名は宮本武蔵。かつて百の命を斬り、今は“人の闇”を斬る者なり」
「説教なら、間に合ってる。俺のことを誰が責められる?
仕事して、生徒に慕われて……ほんの少し、心の隙間を埋めたかっただけだ」
「されど、お主はすでに、自らを斬っておる」
「……なに?」
「教師とは“刀”であるべし。他者を傷つけず、己を律し、真を貫く者。
だが今のお主は――“錆びた刃”。切れぬどころか、腐らせておる」
永瀬の目が怒りに揺れた。
「俺だって人間だ。癒しがほしいだけだ。教師だって、弱いんだよ!」
「ならば問おう。“弱さ”を理由に、他人の道を狂わせる者を、人と呼べるか?」
その一言に、永瀬は黙り込んだ。
武蔵の眼差しは、真っすぐに刺すようだった。
「人を導く者が、自らの孤独に溺れてはならぬ。
寂しさを愛で埋めるな。誇りで、立て」
次の日、永瀬は、佐藤彩音に別れを告げた。
「……好きだった。でも、それは弱さの上に成り立った感情だった。
俺は、子どもたちの前に立つ以上、誤魔化したままではいられない」
涙ぐんだ彩音に、静かに頭を下げて、彼は去った。
それから、永瀬の授業は少しだけ厳しくなった。
だが、生徒はなぜか前より真剣に耳を傾けるようになった。
誰かがつぶやいた。
「なんか、先生……前より、“ちゃんと”してる感じがするな」
夕暮れの屋上。
木刀を背負い、武蔵がつぶやく。
「“癒し”は甘き蜜。“誇り”は苦き酒。
だが、人が立ち続けるために必要なのは――甘さではなく、苦さなり」
風が、静かに旗を揺らした。
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