アイデンティティ ー第1章ー
KANA.T
序 ー嘘から始まる物語ー
第1話 宴 ー嘘から始まる物語ー
三月になりすっかり春めいてきた。そろそろ桜の蕾も綻ぶ頃だが、夕方になるとまだ肌寒さは残る。
しかし、御殿から一番離れた馬小屋横の納屋は、城に出入りする下男、下女の活気と温かい光に満たされていた。
藩主や家臣が忙しい行事前の時期。民に向けられる監視の目が手薄になる時期を狙って行われる集まりだ。
皆、輪の中心に立つ男に期待の眼差しを向ける。
男の仕草、紡ぎ出す言葉、一つ一つに心をくすぐられたような笑い声が上がる。
「おい、本当に大丈夫か?」
「うむ。明日から参勤交代。今城をあげての大忙し。すまぬが、皆に構う暇はない。」
領主の仕草を真似た返答の完成度の高さに、あちこちから感心したような声が漏れた。
「領主様、仕事しねぇのかよ〜」
突然のヤジに小さな笑いが起きた。演じる男も一瞬素顔に戻り、人懐こい笑みを浮かべた。だがすぐに我に返り、真面目な表情に戻ると、領主の素振りを纏って発言した男の方を向いた。
「無礼な!何をいう!今も仕事しておる。」
「本気かよ!」
「このように、皆の前に立っておる。」
「それ仕事かよ〜!!」
わっと笑い声が上がり、納屋の中に拍手まで響いた。男は感心したように数回頷いてから、再び領主の仕草の模倣に戻り、胸を張り、肩を怒らせ、観客を見渡した。
ふと、最前列に座る少女に目が留まった。赤子の頃から知っている、同僚の子供だ。男は威厳を放ちながら、ゆっくりと彼女の前に歩み出た。
「そなた、いくつだ?」
「八つ…」
「ふむ…二年したらこの納屋に来るといい。褒美を取らす。」
あちこちからどよめきに、笑い、「ゲスヤロー」「クズ〜」「子供はだめだろ〜」とヤジが飛ぶ。次に、最近城下町の呉服屋に奉公に入った少年の前に行き、優しく目尻を下げた——
「そなたは、今すぐだ。男にしてしんぜよう。」
少年が照れくさそうな笑顔で男を見上げると、割れんばかりの笑いが起きた。
「まんざらでもねぇのか!?」
「どっちもかー」
「誰でもいいのかよ!」
ヤジが一際大きくなり「俺も選んでぇー」というヤジでどっと笑いが爆発した。「いいぞー!」「選んでやれ領主様!!」納屋のあちこちから更なるヤジが続いた。
男は、今宵納屋に集まった面々を満足げな笑顔でゆっくり見渡した。馴染みの顔から、初めて見る顔まで、老若男女様々だ。
各々と視線が合うと、口角をあげ、ある時は目を細め、また別の観客には小さく頷いてみせた——。
男は一際目立つヤジを飛ばす人物に顔を向けた。修繕で時折屋敷を訪れる大工だ。突如、男はその大工を指差した。
「そこの!ヤジが過ぎる。肌ぬぎしてここへ来い!」
笑い声の渦の中、男だけは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で、人差し指を自分の鼻に向けた。中心にいる男が頷くと「俺どうなんだよぉ!」と笑って周りで囃し立てる仲間たちを見回した。
すると、男はニヤリと口に笑みを浮かべて「こうなる!」と言いながら自らが肌ぬぎし、皆の方に背を向けた。
辺りは一瞬で、真空に放り込まれたような静けさに沈んだ。一同は言葉を失い、視線は男の背に釘付けになった。
「キ、キョウスケ…お前、何やったんだよ?」
先ほどヤジを飛ばしていた男が、目を見開いたまま声を振り絞った。
「何も……」
そう言いながら、観衆に見せるようにしながらゆっくりと歩き始めた。子供達の中には「キョウスケかわいそう」と言って、目に涙を溜める子供もいる。
「何でやられた?」
「鞭。」
「乗馬の時のか?」
「ああ。皆もこうならぬよう気をつけるがいい……」
聴衆から矢継ぎ早に繰り出される質問に、キョウスケと呼ばれる男は淡々と答え始めた——彼の背中には複数のミミズ腫れが赤黒く走り、その中の二つは肉が裂け、表面に血液が固まっていた。
仲間たちの悲痛な表情に一番動揺していたのは、本人だった。深刻な空気に耐えられず、キョウスケは領主の真似を続けた。
「何したらこんなになるんだよ?」
「馬係。」
「はぁ?意味わかんねぇ……」
「私も同感。意味がわからぬ。」
キョウスケの努力とは裏腹に納屋の中には重たい空気が充満していく。質疑が繰り返されるうちに、先ほどまでの活気はすっかり失われていた。
鏡がないから背中の傷の状態がわからなかった。
痛みはあって、着物に血は付いていたから、切れているとは思った。だが、ここまで観衆が引くのは想定外だった。皆に背を見せて場を白けさせてしまったことが悔やまれた。
それは今朝の馬場で起きた。明日から始まる参勤交代に連れていく新しい馬の状態を確かめるため、領主が馬場に来ていた時のこと——。
キョウスケは実際その場を見ていない。だが、領主本人によれば、馬上から降りようとしたところ、馬が二歩ほど動いたせいで、危うく転ぶところだったと言う。
キョウスケが見る限り、袴の裾に少しだけ泥はついているようだったが、その時ついたものかは確認のしようがなかった。
「馬の仕込みが悪いって?」
「さよう…」
「馬が動いたのは、虫のせいじゃねぇの?」
「お主の言うとおり。」
「あいつ、ほんと、暴君だな。」
納屋の中はあちこちからキョウスケに同情の声が上がり、憤慨する声も混じり、どよめきを増して行った。その時——
突然、納屋の扉が乱暴に開け放たれ、納屋にいた皆の表情が一瞬で凍った。
「キョウスケはおるか!」
怒鳴り声と共に腰に刀と脇差を差した二人の家臣が飛び込んで来た。鋭い声は、一瞬にして納屋の温かい空気を吹き飛ばした。
家臣の物々しさに押しつぶされたかのように、誰も指先一つ動かすことができず固まった。
彼らは観衆の間を縫い、キョウスケの前にいくと「来い!」と言って一人が勢いよくキョウスケの腕を引いた。
何が原因で引っ立てられるのか、キョウスケにはすぐに思い当たる節はなかった。あるとすれば、今ここでやっている領主の真似だ。
しかし、領主の言動模写を家臣に見られたことは、今まで何度かあった。いずれの場合も今までは、お咎めなしだった。直接口で『許す』と言われたわけではなかったが、見逃してくれているものと思っていた。
——うかつだったか……。
キョウスケは唇を噛み締めた。後悔はない。生きるのに必死で、辛くて、いつ終わってもいい人生だ。だが、引っ立てられる姿で子供たちに恐怖を与えることだけは出来る限り避けたかった。
彼は一瞬表情をこわばらせたが、子供たちの方に顔を向けると、笑顔で頷いてみせ、一切抵抗することなく進んで納屋から出ていった——。
(つづく)
※「三月」と表現がありますが、この小説では江戸時代に使われていた旧暦で書きます。現代の暦では四月ぐらいの設定です。
※キョウスケは苗字がない上、文字が読み書きできない身分のため、漢字がありません。
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