九章-遠い海の向こうで

1920年8月12日、ハワイ・オアフ島ホノルル、カリヒ地区にある小さな家で、私は産まれ律子と言う名を授かりました。


私の家系は日本では由緒ある家柄だったようですが、祖父と祖母の代に国の政策でアメリカのハワイ州へと渡った一族だと聞いています。


祖父と祖母は、「棄民ではない」と何度も口にしながら、私に日本の文化や習慣を丁寧に教えてくれました。

けれど、アメリカ合衆国という国で生まれ、アメリカ人たちと共に暮らすなかで受ける差別や区別に、私が全く不満を感じなかったかと言えば――それは、嘘になります。


祖父母、そして父と母が教育に熱心だったおかげで、私は言葉の壁に悩むことも、学校の成績に苦しむこともなく、平穏無事な毎日を過ごしていました。


私のような「日系」と呼ばれる宙ぶらりんな人種は、多くの場合、最低限の教育を受けた後にサトウキビ畑で働く――それがごく当たり前の生活様式でした。

でも、幸い私はハワイ大学マノア校へ進学でき、理論物理学と数学を専攻するという、当時としては少し異色の女子大生となったのです。


当時、日系人が大学に進学することはとても珍しく、構内ではよくジロジロと見られました。

理不尽な扱いを受けて、少し悔しい思いもしましたが――成績だけは、私を守る盾になってくれました。

それは、家族が私に与えてくれた最大の贈り物だったのだと思います。


私の家では、オアフ島では少し大きめのサトウキビ畑を営んでいました。

日の出から日没まで畑仕事をする両親は、夕方になると私を夕日がきれいに見える丘へ連れて行き、こう語ってくれました。


「夕日の向こうに、誇り高き我らの祖国――日本がある」


私は当時、自分を“生粋のアメリカ人”だと信じていましたから、この言葉の本当の意味を理解したのは……ずっと、ずっと後のことでした。


一般的に、私の住むカリヒ地区は「貧困」と「移民労働者の街」として見られることが多いけれど――

幼い私には、同じ顔と肌色の優しい人たちの暮らす普通のあたたかい町でした。


朝から晩まで、みんな生真面目に働いていて。

私を見かけると「律ちゃん!」と元気に声をかけてくれる人がたくさんいて……

みんなが助け合いながら、異国での日々を、一日一日、必死に越えていっていました。


ハワイ大学マノア校で理論物理学と数学を受講していた私は、両親にとって成績優秀な“自慢の娘”だったようです。

でもその期待とは裏腹に、私は夜、こっそりと家を抜け出して――

ホノルル・ダウンタウンの外れにあるバー、《Bar Haleakalā(ハレアカラ)》で、朝までアルバイトをしていました。


“ハレアカラ”――ハワイ語で「太陽の家」という名を持つそのバーは、お酒を軍人さんに出す、賑やかな海沿いの酒場でした。


ネオンの灯りがともる頃、店内にはジャズが流れはじめます。

汗のにじむシャツの匂い、潮風混じりのタバコの香り。

退役軍人と現役の兵士たち、それに港湾で働く屈強な男たちが、夜な夜な集まって――

「あーでもない、こーでもない」と笑いあい、

時々、カンッ!とビリヤードのキューがボールを気持ちよく弾く音が響く……そんな、大人の店でした。


店主の名前は、ジョー・グラッツィ。イタリア系アメリカ人の、少し不器用な優しい人。


私がお店にいると、マスタージョーはすぐにお客さんと飲み始めて、最後はだいたい潰れちゃうの。

だから、私はあっという間にお店の仕事を覚えてしまって。

常連さんの中には「お前がこの店、継げばいいじゃねぇか」なんて言う人もいて。

ジョーさんも、まんざらでもない顔で笑うから……私は、ちょっと困ってしまった。

でも、それも今ではちょっといい思い出。


無口だけど、日系の私を偏見なく雇ってくれたジョーさんには、今でも感謝しているんです。


ある日――

確か、土曜の夜だったよね。

私たちが出会ったのは。


その夜は、星空がとても綺麗で。

「今日も一日、頑張ろう!」――そう、夜空の星に話しかけながら歩いたのを、今でもよく覚えてる。


お店の前を通ると、若い軍人さんたちが大勢で来ていて。

その中に、金髪で、笑った顔のとってもキュートな人――マシュー・ハートリー、君がいたんだよね。


一瞬、目が合ったの。覚えてるかな……?

私がカウンターであたふたしているのを、からかわれて困っていたとき。

君は、そっと庇ってくれた。


そのすぐ後。

「日系の女を庇った」って、仲間に茶化されていた君を見て――

私ははじめて、「あぁ、私はアメリカ人じゃないんだ」と、気づかされたんだよ。


そう思った直後だったよね。

あの事件が起きたのは――


……今思い出しても、笑っちゃうよ。

だって、あれは本当に“大事件”だったから。


黒人兵士ルーファス・ジョンソン。

彼が店に入ってきたとき、店の空気が変わったのを、今でも覚えてる。

とても大きな身体の、でも優しい目をした黒人の軍人さん。


私は、いつも通りに笑顔で接客しようとした。

でも、その瞬間、どこからかこんな声が響いたの。


『ここは奴隷が来ていい店じゃねぇぞ!!』


……心臓が、ドクンって鳴った。

ルーファスは、何度かお店に来てくれていた馴染みのお客さんだった。

日系の私には、彼がこの国でどれだけ“生きにくいか”が、痛いほど分かる気がしていた。


ここは、みんなが楽しく過ごす場なのに。

肌の色だけで、こんなふうに拒絶されるなんて……

ルーファスは、そっと作り笑いを浮かべて、店を出ようとした。

迷惑をかけたくなかっただけなんだよね。


……でも、あの瞬間。

私は、たぶんもう、彼に恋をしていたのかも知れない。


二階から椅子が落ちたような、大きな音がした、その直後――

『今、ルーファスを馬鹿にした奴はどいつだ!!』


マシュー・ハートリーは、もう殴りかかってた...

「どいつだ」って言った瞬間には、もう拳が飛んでたの。


そのあとのことは、もうよく覚えてない。

けど、なぜかルーファスまで乱闘に巻き込まれて――

二人で、何人ボコボコにしたんだっけ?


……お店の片づけは大変だったけどね。

あの日のことは、私は一生、忘れない。

遠い海の向こうでも――

ねぇマシュー...

どうしてあの遠い海の向こうだけが、こんなにも近くて、遠いの?

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