五人目:筋トレ経験値100倍

午前0時。きっかり、その時間に僕の頭はリフレッシュされた。

深夜のレイドバトルが終わり、チャット欄に「乙」と打ち込んだ、まさにその瞬間。さっきまでの、モニターの光で焼かれたような目の痛みと、カフェインで無理やり繋いでいた集中力が嘘のように消え去り、脳が妙に冴え渡ったのだ。


「ん……なんだよ……」


17歳、高校二年生。実家暮らし。

一ヶ月前、僕は学校に行けなくなった。原因は、体育の授業での些細な、しかし僕にとっては致命的な失敗。

運動神経ゼロの僕が、ソフトボールの授業で盛大に空振りし、その勢いでズボンが裂けたのだ。クラス中の視線が、ビリッと音を立てた僕の尻に集中する。しかもその日に限って、ちょっと冒険して買った真っ赤なパンツを履いていたのだ。

あの瞬間の、女子たちの冷笑と男子たちの大笑いが、今も耳にこびりついている。

以来、僕の世界は、この六畳間の自室だけになった。痩せっぽちで、暗い性格。唯一の心の拠り所は、このオンラインゲームの世界だ。


そんな僕の城の隅、漫画が雪崩を起こしている本棚の前に、人影が浮かんでいた。


霧のように半透明な、人型のナニカが、僕の散らかった部屋の床に、まるで自分の家みたいにだらしなく寝転がって、漫画を読んでいるその腹は、少しだけぽっこりと出ているように見えた。


「だ、誰……?」

「あ? 神様。良いところだからもうちょっと待って」


神様は、僕に一瞥をくれただけで、漫画に視線を戻した。1分、2分ほど待つと読み終わったのか、漫画を置いた。


「おうおう、待たせたな。それにしてもお前、ひっでえ生活してんな。一日中部屋に引きこもって、ガリガリに痩せちまって。不健康の極みだぞ」

「よ、余計なお世話です……」

「まあ、でも、お前、昨日やってたゲームで、初心者のやつに色々教えてやってただろ? ああいうお節介、神様は嫌いじゃないぜ」


神様? ゲーム?

僕の脳が混乱していると、神様は面倒くさそうに体を起こした。

「お前のその不健康な人生を見かねて、ご褒美だ。特別に、お前の人生を変えてやれるスキルを授けてやる」


人生を変える、スキル……?

僕だけの、特別な力?

突然のことにビビりながらも、漫画やゲームのような展開に、僕の心は少しだけ、ワクワクしていた。どんなすごい力がもらえるんだろう。


神様はニヤリと笑うと、力強く言い放った。

「お前に授けるスキルは、『筋トレの成果が100倍になるスキル』だ!」


……は? 筋トレ?

僕が最も忌み嫌う単語だ。


「あ、結構です。それより、次のイベント始まるんで」

「そういうなよ。やっぱ良いもんだぜ、運動は。気分もスッキリするし、元気になれる」

「僕はそういうのいいんです。どうせうまくいかないんで」

「いやいや、誰にだって初めてはあるもんだ」

「僕には才能ないんで、放っておいてください。興味ないです」


僕がマウスに手を伸ばした瞬間、神様はギレた。


「おい! 人がせっかくスキルを授けてやるって言ってんのに、なんだその態度は!」


神様は僕のPCに近づくと、その背面に伸びる電源コードを、物理的に引っこ抜いた。ブツン、という音と共に、僕の世界(モニター)は暗転した。


「な、何するんですか!」

「うるせえ! いいか、よく聞け! お前がそうやってネガティブなのはな、体が不健康だからだ! 貧弱な肉体には、貧弱な精神しか宿らん! 筋肉はな、全てを解決するんだよ!」


神様は、どこかのジムのトレーナーのように、熱く語り始めた。


「よし、決めた! 神様パワーで、お前が一日一時間筋トレしないと、ゲームができないようにしてやったからな! ありがたく思え!」


そう言うと、神様は満足げな顔でフッと消えた。

後に残されたのは、電源の落ちたPCと、全く納得のいかない僕だけだった。


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翌日。僕は筋トレをしなかった。

当たり前だ。ゲームができないなら、他のことをすればいい。僕は本棚からお気に入りの漫画を引っ張り出し、一日中ベッドの上で読みふけった。次の日も、その次の日も、筋トレはせず、代わりに溜め込んでいたアニメや映画を消化した。我ながら、見事なまでの怠惰っぷりだ。


そして、三日目の夜。

僕が映画のクライマックスシーンに感動の涙を流していると、部屋の空気がビリッと震えた。

神様が、前回よりもさらにキレた様子で、僕の目の前に立っていた。


「お前……この三日間、何してた?」

「え、映画とか……漫画とか……」

「筋トレしろっつったよなああああああ!!」


神様の輪郭がビリビリ震えている。


「お前、舐めてんのか? 神様を舐めてんのか? そんなに娯楽が好きか。そうかそうか、わかったよ」


神様は、邪悪な笑みを浮かべた。


「神様パワー、第二段階だ。一日一時間、筋トレをしないと、お前は一切の娯楽ができないようにしたからな。ゲーム、漫画、小説、映画、音楽、ネット……全部だ。せいぜい、壁のシミでも数えて暮らすんだな!」


その言葉を最後に、神様は消えた。

僕は、試しにスマホで動画サイトを開こうとした。だが、画面には「筋トレが足りません」という無慈悲なメッセージが表示されるだけ。漫画も、開くと白紙になっている。

僕の娯楽は、完全に断たれた。

こうして、僕の、僕による、僕のための強制筋トレ生活が、幕を開けたのだった。


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「うぐぐぐ……!」

腕立て伏せ、一回。床にへばりついたまま、プルプルと震える腕は、自分の体重すら支えきれない。情けない。だが、やるしかない。この地獄の一時間を乗り越えなければ、僕に人権……いや、娯楽権は与えられないのだ。


最初の数日間は、まさに拷問だった。筋肉という概念が存在しないかのような僕の体は、あらゆる動作に悲鳴を上げた。スクワットをすれば膝が笑い、腹筋をすれば腰が砕けそうになる。筋肉痛で、ベッドから起き上がるのさえ一苦労だった。


そんな地獄のような日々が始まった数日後。汗だくで床に突っ伏している僕の前に、神様がふらりと現れた。

「よぉ。やってるか」

「……あなたのせいで」

「フォームがなってねえな。腕立ては、肩甲骨を寄せるように意識しろ。腹筋は、もっとヘソを覗き込むように。あと、食事だ。お前、ちゃんと食ってるか? 筋肉にはタンパク質が必要不可欠だ。鶏のささみとか、ブロッコリーを食え」


神様のアドバイスを(不本意ながら)忠実に守り、僕は食卓に並ぶ母の手料理には目もくれず、黙々と自分で茹でた鶏むね肉とブロッコリーを口に運んだ。


「……どうしちゃったの? ハンバーグ、嫌いだったかしら……?」


心配そうに僕の顔を覗き込む母。そのうち食費がかさむから、鶏むね肉は自分で買ってこいと言われた。

父は、「思春期とは、かくも不可解なものか……」と遠い目をして呟いている。

家族は、僕が部屋に引きこもった挙句、新興の健康宗教にでもハマったのではないかと、本気で心配していたらしい。


神様は、寝転がってスマホをいじりながら、なぜか僕の専属トレーナーのように、的確なアドバイスを続けた。


「お前はまだ未成年だからな。これは神様からの特別サービスだ。ありがたく聞けよ」


それからも、神様は週に一度くらいのペースで現れ、トレーニングメニューの組み方から、プロテインを飲むタイミングまで、熱心に指導していった。


そして、一か月が経った頃。僕の体に、明らかな変化が訪れた。

スキル「筋トレの成果が100倍になるスキル」。その効果は、神の御業としか言いようがなかった。

あれだけ苦労した腕立て伏せが、10回、20回と、面白いようにできるようになった。最初は数キロのダンベルすら持ち上げられなかったのに、今では軽々と頭上に掲げることができる。筋肉が、悲鳴ではなく、喜びに満ちた咆哮を上げているのがわかった。


部屋に閉じこもって「うおおおおお!」と叫びながらダンベルを上げる僕の姿に、母は「あの子が……壊れた……」と涙ぐみ、父は「まあ、引きこもってゲームしてるよりは、健康的でいいんじゃないか……?」と、よくわからないフォローを入れていた。


僕は、気づけば声を上げながらトレーニングに没頭していた。辛さが、快感に変わっていく。成長する自分の肉体を見るのが、何よりも楽しくなっていた。


そして、三ヶ月後。

僕の体は、完全に作り変えられていた。

ひょろひょろだった腕は、丸太のように太くなり、血管が浮き出ている。貧弱だった胸板は、鎧のように分厚い大胸筋に覆われ、腹筋は、まるで彫刻のように8つに割れていた。鏡に映るのは、僕の顔をした、見知らぬゴリマッチョだった。


だが、不思議と気分は悪くなかった。

むしろ、体が大きくなるにつれて、心の中にあった澱のようなものが、少しずつ晴れていくのを感じていた。世界が、前より少しだけ明るく見える。自分に、自信が湧いてくる。

神様の言っていた「筋肉は全てを解決する」という言葉が、少しだけ、ほんの少しだけ、真実味を帯びて聞こえ始めた。


「よし」

僕は、三ヶ月ぶりに、高校の制服に袖を通した。

「学校、行ってみるか」


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三ヶ月ぶりに足を踏み入れた教室は、まるで異世界だった。

僕が教室のドアを開けた瞬間、クラス中の視線が僕に突き刺さる。そして、次の瞬間、教室は水を打ったように静まり返った。

誰も、僕だと気づいていない。そりゃそうだ。三ヶ月前まで、隅の方で小さくなっていたモヤシ野郎が、プロレスラーみたいな体になって帰ってきたのだから。


「あ、あの……僕だけど……」


僕がそう名乗ると、教室は「ええええええ!?」という絶叫に包まれた。

友人たちは、恐る恐る僕の腕を触り、「カッチカチだ……」「何があったんだよ……」とドン引きしている。女子たちは、遠巻きに僕を見て、ヒソヒソと何かを噂している。

あの忌まわしいズボン裂け事件の記憶は、僕の圧倒的な肉体の前には、もはや些細なことのように思えた。


だが、新たな問題が山積みだった。


まず、制服がパツパツすぎる。腕を曲げるだけで、袖の縫い目が悲鳴を上げる。椅子に座れば、太ももが机に引っかかって窮屈だ。


私服を買いに行っても、問題は深刻だった。腕や胸に合わせると、ウエストがガバガバ。太ももに合わせると、ズボンが履けない。世の中の服は、僕のような体型のために作られていなかった。


食事も一苦労だ。筋肉を維持するためには、大量のカロリーとタンパク質が必要になる。母が作ってくれる弁当は、巨大なタッパーにぎっしり詰められた鶏むね肉とブロッコリー。クラスメイトが菓子パンをかじる横で、僕は黙々と鶏肉を咀嚼する。その姿は、もはやアスリートのそれだった。


さらに、些細な動作にも支障が出始めた。背中が痒くても、分厚い広背筋が邪魔で手が届かない。満員電車では、その体格が原因で、意図せず周りを威圧してしまう。まさに、フィジーク選手が抱える悩みそのものだった。


ある日の放課後、クラスのヤンキーグループのリーダー格、木村くんに呼び止められた。不登校になる前は、目が合うだけで寿命が縮む思いだった相手だ。


「おい、お前。ちょっといいか」


昔の僕なら、きっと震え上がっていただろう。だが、今の僕は違った。目の前の木村くんが、やけに小さく見える。彼の細い腕、薄い胸板。正直、今の僕なら、彼を小脇に抱えて校庭を一周できるだろう。


「……何の用?」


僕が、自分でも驚くほど低い声で返事をすると、木村くんは一瞬怯んだように見えた。


「い、いや……その、お前、どうやってそんな体にしたんだ……? ちょっと、教えてくれよ」


恐怖の対象だったはずのヤンキーが、僕に教えを乞うている。筋肉は、人間関係のヒエラルキーすら変えてしまうらしい。


夏休み。

友人たちに誘われて、海に行くことになった。


この鍛え上げた肉体があれば、ビーチの視線を独り占めできるはず。水着のお姉さんたちに声をかけられまくるに違いない。そんな淡い期待を抱いて、僕は砂浜に降り立った。


女子たちの視線は、確かに感じる。だが、それは憧れというより、畏怖に近いものだった。

そして、僕に声をかけてきたのは、予想とは全く違う人種だった。


「よぉ、兄ちゃん! いい体してんな! どこのジム通ってんだ?」


日焼けした肌に、僕と同じかそれ以上に巨大な筋肉をまとった、マッチョなお兄さんたちだった。彼らは僕の体をベタベタと触りながら、大胸筋のトレーニング法や、プロテインの味について、熱心に語りかけてくる。


僕の周りには、いつの間にか屈強な男たちの輪ができていた。お姉さんたちは、遠くからその異様な光景を眺めているだけ。僕の夏は、甘酸っぱい恋の予感ではなく、汗とプロテインの匂いに満ちていた。


それでも、僕は前向きだった。

心に余裕ができた僕は、ずっと密かに想いを寄せていたクラスメイトの鈴木さんに、告白することを決意した。


放課後、僕は彼女を体育館裏に呼び出した。


「鈴木さん。ずっと、好きでした。僕と、付き合ってください!」


僕が、練習してきたセリフを言い、頭を下げると、彼女は困ったように言った。


「ご、ごめんなさい……。その……なんていうか、ちょっと、筋肉がすごすぎて……無理、です……」


フラれた。

理由は、ゴリマッチョすぎること。

僕は、自分の巨大な上腕二頭筋を見つめながら、天を仰いだ。

おかしい。筋肉は、全てを解決してくれるのではなかったのか……。


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僕は、再び神様に泣きついた。


「神様! どうしてくれるんですか! ゴリマッチョすぎてフラれました!」


僕の報告を聞いた神様は、腹を抱えて笑った。


「だっはっは! そりゃそうだろ! 何事も、やりすぎは良くねえんだよ。よし、次のステップだ。これからは、細マッチョを目指せ」


そこから、僕の新たなトレーニングが始まった。

今までの、ただデカくなるためのトレーニングとは違う。美しく、しなやかな体を作るための、緻密な計算に基づいたトレーニングだ。


朝は、川沿いをジョギングすることから始めた。朝日を浴びながら走る心地よさを、僕は初めて知った。ゴリマッチョ時代には見向きもしなかった有酸素運動が、体の余分な脂肪を削ぎ落としていく。


家では、自重トレーニングを中心としたメニューに切り替えた。様々なバリエーションの腕立て伏せ、懸垂、体幹トレーニング。それは、筋肉の大きさを競うのではなく、自分の体をいかにコントロールするか、という自分自身との対話だった。


食事も、ただタンパク質を摂るのではなく、PFCバランス(タンパク質、脂質、炭水化物)を考えたクリーンなものを心がけた。


日々の運動は、僕の生活をさらに変えていった。

特に変わったのは、勉強への姿勢だ。


以前は、30分も机に向かえば集中力が切れていた。だが、トレーニングで培われた精神的なスタミナは、そのまま学習能力に直結した。脳がクリアになり、気分も常に前向きになった結果、苦手だった数学の公式が、パズルのピースがはまるように、スルスルと頭に入ってくるようになったのだ。

僕の成績は、面白いように上がっていった。


そして、一年後。

僕は、ゴリマッチョでも、ヒョロガリでもない、程よく引き締まった「細マッチョ」になっていた。

そして、手元には、有名私立大学の合格通知書があった。


大学の入学式。新調したスーツは、僕の引き締まった体を美しく見せていた。背筋を伸ばし、前を向いて歩く。もう、誰かの視線を恐れることはない。


キャンパスライフは、驚くほど輝いていた。

鍛え上げられた肉体と、それに伴って手に入れた自信。それは、男女を問わず、人を惹きつけるらしい。


「ねえ、君、学部どこ? 今度の新歓コンパ、来ない?」

「お前、なんか雰囲気あるな。アメフト部、興味ないか?」


サークルの勧誘、飲み会の誘い。高校時代には考えられなかったような、華やかなイベントが次々と舞い込んでくる。

僕は、生まれて初めて「青春」を謳歌していた。


あの日、神様が僕の部屋に現れなければ。

僕はずっと、あの六畳間で、世界を呪いながら、ゲームを続けていただけだろう。

神様がくれたのは、単なる筋トレスキルじゃなかった。

それは、自分を変える「きっかけ」と、やり遂げるための「強制力」だったのだ。


僕は、大学のパンフレットを眺めながら、確信していた。

筋肉は、やっぱり、全てを解決するのかもしれない。


僕は、新しい人生のスタートラインに立ち、晴れやかな気持ちで、未来を見つめていた。

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