第2話 それでも私は、棄権希望です
「――クラリス・グレイ候補」
その名が王子の口から告げられた瞬間、クラリスの背筋をひやりとした感覚が走り抜けた。
背中に一筋、汗が伝うのがわかる。
(……どうして、私なんかが一位通過?)
通過者四十三名。その中で、まさか自分が――。
口に出すまでもなく、脳内で何度も問いを繰り返し、否定しては打ち消す。
採点ミス? 名簿の取り違え? 冗談? からかい? ――でも。
王子のまなざしは、確かにこちらをまっすぐ見ていた。
冗談でもなければ、間違いでもない。これは“事実”だ。
けれど、事実であるほどに、クラリスの胸はざわつく。
(注目されるなんて、いちばん避けたかったのに……)
「……あ、あの……」
気まずさと困惑に押されて、声が自然と漏れる。
だが小さすぎたそれは、ざわめきの中にかき消えた。
王子の耳には、きっと届かなかっただろう。
「次の審査も、楽しみにしているよ。棄権など、許さないからね――クラリス・グレイ」
――また、名を呼ばれた。
それだけのことなのに、世界の重心がわずかに傾いたような、そんな奇妙な感覚にとらわれた。
その瞬間、空気がざわりと揺れた。
息を呑む音。囁き。誰かの笑い。誰かの舌打ち。
百人の令嬢が並ぶ中、無名の、控えめな、誰の目にも止まらなかった存在が――
王子の口から名を呼ばれたことによって、“舞台の中央”に引きずり出されたのだ。
(……これで、目立たず静かに脱落するって作戦は、完全に破綻ね)
頭では冷静にそう思った。
でも、胸の奥がどうしようもなくざわつく。
席に戻るその短い間に、いくつもの視線が突き刺さるのを感じた。
どれもこれも、“なんであんな子が”という視線だった。
煌びやかなドレス、宝石、香水――そうした華やかさに包まれた他の候補者たちのなかで、
控えめな装いのクラリスは、まるで場違いな存在だった。
(まるで……間違って舞台に出てしまった村人Aね)
そんな皮肉を思いついた自分にすら、苦笑すら浮かばなかった。
それでも、心のどこかで、ふつふつとした感情が湧き上がっていた。
(“気づいてしまう人間”って……どういう意味だったのかしら)
あの設問は、単なる歴史問題ではなかった。
答えを導くというより、疑いの目を持てるかどうか――それを試されていた気がする。
考えれば考えるほど、答えの見えない迷路に迷い込むような感覚。
それでも、王子が口にした言葉は、どこか引っかかって離れなかった。
「上位十名は最初の謁見があります。
まずはグレイ候補、どうぞこちらへ」
その名を再び呼ばれたとき、クラリスはびくりと肩を震わせた。
目の前には、王宮の従者服に身を包んだ青年が、丁寧に頭を下げている。
「……はい?」
「王太子殿下との謁見になりますので、どうぞこちらへ」
言われて、頭の中が真っ白になる。
(……うそ、でしょ)
選抜戦は、王子が百人の花嫁候補を見極める“形式的な儀式”のはずだ。
その中で、一人ずつ“呼ばれる”なんて――聞いたことがない。
注目されることを避けてきた自分が、今や王子の関心の中心にある。
それが怖いのか、嬉しいのか、それすらわからなかった。
控えめに震える足を無理やり前に出し、クラリスは従者に案内されて広間を抜ける。
向かった先は、玉座の奥――謁見の間のさらに奥にある、静かな一室。
その扉の向こうに、王子が待っている。
(……棄権したいだけだったのに。どうして、こんなことに)
心の中で、何度目かのため息がこぼれた。
* * *
「改めて、第一審査通過おめでとう」
そう告げた王子――レオニス・アルヴァは、玉座ではなく、重厚な書斎机の背後に立っていた。
天蓋も金飾りもない、静かな一室。
整然と並べられた書架と、窓から差し込む柔らかな光が、城の奥にあるはずのその場所に、奇妙な落ち着きをもたらしていた。
先ほどまでの華やかな広間とは対照的に、ここはまるで“思考する場所”のようだった。
(どうして……こんなところに、私が?)
場違いな気後れが、再び胸を締めつける。
けれどレオニスは、そんな彼女の動揺を気にも留めぬように、静かに続きを促した。
「いえ、私は……その……ただ、変だと思ったことを、正直に書いただけで……」
クラリスは視線を床に落としながら、声を搾り出すように答えた。
できるだけ目を合わせたくなかった。
彼の目は、まっすぐで、怖いほどに透き通っていたから。
「君の答案は、他の候補者とは根本的に違っていた」
その言葉に、クラリスは肩をびくりと震わせた。
レオニスの声音は静かだったが、そこには確かな熱と重みがあった。
「設問に対し、“模範的な正解”を出す者は多い。
だが、“問いそのものの歪み”に気づいた者は――君だけだった」
(……問いの歪み)
その言葉に、クラリスの背筋がひやりと冷える。
自分でも、あの設問には妙な引っかかりを感じていた。
だからこそ、常識を疑うような答えを書いたのだ。
でも、まさかそれが“正解”だったなんて――
「……あれは、何を測るための問題だったのですか?」
思わず、口をついて出た問い。
それに、レオニスはごくわずかに笑みを浮かべた。
「そういう反応が、すでに“正解”だ」
含みのある、しかしあからさまではない微笑み。
彼のまなざしは、まるで彼女の心の奥を覗き込むようだった。
(この人……最初から、私を“見に来てた”?)
鳥肌が立つような感覚に、思わず腕を押さえる。
王子の視線は、ただの好奇や興味ではない。
“確認”しに来た――そんな確信めいた圧があった。
「……あの。申し訳ありませんが、私は棄権を希望しております」
空気が張りつめるのを感じながら、クラリスは精一杯の勇気を振り絞って口を開いた。
「私は場違いですし、妃になれるような器では――」
「妃にしたいから呼んだんじゃない」
レオニスの声が、すっとクラリスの言葉を切った。
その声音は柔らかいのに、有無を言わせぬ力があった。
「私は、“真実を見抜ける者”を探している」
その一言が、謁見の間の空気を変えた。
「この選抜戦は、ただの結婚相手選びではない。
むしろ、それは“仮面”だ。――私は、この中に潜む“本質を見抜ける人間”を見極めている」
淡々とした口調の中に、鋭さと、ある種の孤独が滲む。
「……“本当に必要な”?」
思わず反芻したその言葉に、レオニスはゆっくりと頷いた。
「君には、それができると思っている。
君の目が正しければ――この王国の未来も、少しは変わるかもしれないからね」
冗談のように聞こえる台詞だった。
けれど、その瞳は笑っていなかった。
真っ直ぐで、重く、揺るぎない意志があった。
(この人は……いったい、この選抜戦で何を暴こうとしているの?)
クラリスの中に、確かに何かが芽吹き始めていた。
不安でもなく、恐怖でもなく。
それは、あまりにも久しぶりの感情。
――知りたい、と思った。
* * *
部屋を辞して控え室に戻ると、空気が変わっているのをクラリスはすぐに感じた。
先ほどまでのざわめきが、微妙に――冷えている。
視線が、突き刺さる。
「……やっぱり、“王子のお気に入り”じゃない?」
「……でも、ただの子爵令嬢よ?今までにどこに接点があったの?」
「急に前に座らされて、一位通過? できすぎでしょ」
「子爵令嬢のくせに棄権なんて考えるから、王子の癪に触ったのではないかしら」
ひそひそと、けれど隠す気のない声たちが、まるで毒の霧のように漂ってくる。
疑念、嫉妬、探るような好奇、そして――見下し。
クラリスはそれらすべてを、正面から静かに受け止めた。
(ああ、もう。……目立たず帰るなんて、無理だったんだわ)
突き刺さる痛みに似た視線も、酷く冷たい言葉も、もはや“想定内”だった。
それよりも胸をざわつかせていたのは――さっき、王子が言った言葉の残響だった。
“真実を見抜ける者”。
あの言葉が、今も頭の奥で繰り返されている。
あのとき、自分の内にあった“何か”を――彼は見抜いていた。
そんな気がしてならなかった。
(もしそれが、本当に意味のあることなら――)
この選抜戦が、ただの政略でも恋愛劇でもなく、
“何か大きなもの”を見極めるための舞台なのだとしたら。
私は、もう少しだけ、ここにいてもいいのかもしれない。
“逃げ出す”以外の選択肢が、自分の中に生まれるなんて。
そう思ってしまったことを、クラリス自身がいちばん驚いていた。
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