心に宿る虹

ルミナの治療院は、さっきも来たばかりだったが、主が帰ってきたことで一層温かく感じられた。


薬草の香りが漂う診察室に通されたアリアとフィンは、木製の椅子に腰を下ろした。壁には様々な薬草の標本と、手作りの感謝の手紙が飾られている。机の上には小さな純粋喜悦結晶の置物があり、それが部屋全体を優しい光で包んでいた。


石造りの壁には、薬草学の古い書物が丁寧に並べられており、中には手書きの研究ノートも含まれていた。患者からの感謝の手紙も額縁に入れて大切に保管されており、ルミナがいかに地域の人々に慕われているかが伝わってくる。


「さっきは、感情麻薬の中毒者を助けてくれて、ありがとう」ルミナは白衣を着直しながら二人に向き直った。


疲れているようだったが、患者を治療できた満足感が表情に表れているように見えた。


「いえ、こちらこそ」アリアは少し緊張しながら答えた。「私も、あの人を助けることができてよかったです」


「さて」ルミナは改めて椅子に座った。金色の髪を後ろに軽く流し、真剣な表情になる。


「エドからの紹介とのことだったけど、彼から何か言われてきたの?」


「はい」アリアが懐から手紙を取り出して差し出した。


ブラウン工場長の丁寧な文字で書かれた封筒は、長旅で少し汚れているが、大切に扱われていることがわかる。


ルミナは封を開け、ブラウン工場長の手紙を読み始めた。読み進むにつれて、その表情が徐々に真剣になっていく。


時々眉をひそめたり、驚いたような表情を見せたりしながら、最後まで慎重に読み通した。


「なるほど...これは興味深い」ルミナは手紙を丁寧に折り畳んだ。


「彼とは古い知り合いなの。昔、彼が工場で働いていた頃に知り合ったのよ」


「ブラウン工場長とは、昔からのお知り合いなんですか?」アリアが興味深そうに尋ねた。


「ええ。20年ほど前、私が駆け出しの薬師だった頃、ひどい怒怒結晶の暴発事故があったの」


ルミナは懐かしそうな、しかし少し影のある表情を浮かべた。


「エドはその事故で重傷を負って、私が治療を担当したのよ」


「怒怒結晶の暴発事故?」アリアが身を乗り出した。


「当時は、まだ暴発性の高い怒怒結晶の扱いがちゃんと確立してなくてね。右腕に重い火傷を負って、一時は腕を失うかもしれないと言われたの」


ルミナは遠い目をして続けた。


「治療は3ヶ月に及んだの。でも、最新の薬草治療と感情結晶療法を組み合わせることで、なんとか腕を救うことができたのよ」


「それで、今でもお付き合いを?」アリアは少し安心したように微笑んだ。


「ええ。エドは『感情結晶の力で人々を助けたい』という純粋な夢を持っていて、私もその夢に共感したのよ。今でも手紙のやり取りをしたり、お酒を飲んだりしてるわ」


ルミナの琥珀色の瞳には、深い信頼と温かい理解が宿っている。


「彼の手紙によると、アリアは特殊な事情をお持ちだとか」ルミナは手紙を返しながらアリアを見つめた。


「詳しくは書かれていないけど、『必ず力になってもらえる』と信頼を込めて書かれているわね」


「フィン」ルミナが振り返った。


「申し訳ないけれど、アリアとは個人的にお話したいことがあるの。少しの間、受付でお待ちいただける?」


フィンは少し困惑した表情を見せた。


「あ...はい」フィンは立ち上がったが、明らかに不満そうだった。


「でも、アリアに何か問題があるなら、僕も聞いておきたいんだけど...」


「大丈夫よ、フィン」アリアが小さく微笑んだ。「個人的なことだから」


フィンが部屋を出ると、ルミナは改めてアリアに向き直った。


「エドの手紙には、あなたが『特別な能力』をお持ちだと書かれているの」ルミナの声は優しくも真剣だった。


「それは、もしかして感情結晶に関するものかしら?」


アリアは身を縮こまらせた。やはり、ここでも自分の秘密を話さなければならないのか。しかし、ブラウン工場長をエドと呼ぶほど親しく、しかも彼の命を救った恩人であるルミナなら、信頼できるかもしれない。


「私は...憎悪結晶を作ることができるんです」


アリアは小さな声で答えた。


「憎悪結晶?」ルミナは目を見開いた。


「それは...理論上の存在だと思っていたけど...」


「周りの人に悪影響を与える危険な力です」アリアの声は震えていた。


工場での惨事と、マリとの別れの記憶が蘇ってくる。


「色んな人を傷つけてしまって...それで私は故郷を出ることになりました」


ルミナは長い間、アリアを見つめていた。


その表情には驚きと同時に、深い理解の色が浮かんでいる。


薬師として多くの患者を見てきた経験から、アリアの苦悩の深さを察しているようだった。


「差し支えなければ、実際に見せてもらえる?」ルミナは優しく言った。「あなたの能力を正しく理解したいの」


「本当に...大丈夫ですか?」アリアは不安そうに尋ねた。「前に暴走して、多くの人を傷つけてしまったことがあるんです」


「ええ、約束するわ」ルミナの声には確信があった。「こう見えて、私も感情結晶の専門家よ」


アリアは長い間迷った後、ゆっくりと深呼吸をした。手のひらに意識を集中すると、深紅の美しい光が手のひらに宿った。


「これは...」ルミナは息を呑んだ。「信じられない...本当に憎悪結晶を作り出している」


深紅の結晶は、確かに憎悪の波動を放っているが、同時に美しい輝きを持っていた。


「これが私の憎悪結晶です」アリアは震える手で結晶を差し出した。手のひらに乗せたそれは、まるで生きているかのように微細な光を放っている。


ルミナは立ち上がり、アリアの憎悪結晶を様々な角度から観察した。


その表情は薬師というより、美しいものを見た時の純粋な感動に満ちている。


「実際に見るのは初めてよ」ルミナは感嘆の声を上げた。


薬師としての専門知識から、その純度の高さと安定性に驚いている。「これが憎悪結晶...まさに奇跡ね」


「でも、この力は危険で...」アリアが不安そうに続けようとした時、ルミナが優しく割り込んだ。


「アリア」ルミナはアリアの肩に両手を置いた。「憎悪というのは、本来『現状を打破する力』なの」


「現状を...打破する?」アリアは困惑した。これまで憎悪を肯定的に捉えたことなど一度もなかった。


「そうよ。今ある状況に満足せず、より良い状態にしたいという強い意志。それが憎悪の本質なの」ルミナは穏やかに説明した。


「つまり...私の憎悪は...」


「現状を変えようとする意志よ。だから、こんなに美しく輝くの」ルミナの言葉は、アリアの心の奥深くに響いた。


「憎悪は破壊の感情だと思われがちだけど、実は創造の前段階なのよ。古いものを壊さなければ、新しいものは生まれないから」


アリアは初めて、自分の能力を肯定的に捉えることができた。


胸の奥に温かいものが広がっていく。


「ありがとうございます...初めて、自分の力を悪くないものだと思えました。とても楽になりました」アリアの目に涙が浮かんだ。それは苦しみの涙ではなく、解放の涙だった。


「それは良かったわ」ルミナは微笑んだ。その笑顔には母親のような慈しみが込められている。


ルミナは自分の手のひらに純粋な喜悦結晶を作り出した。


その輝きは、路地裏で見た時と同様美しく、見ているだけで心が軽やかになる。


アリアの憎悪結晶と並べて見ると、対照的でありながらも、どちらも人間の純粋な感情から生まれた美しいものだとわかる。


「感情結晶の制御は、感情そのものの理解から始まるの」ルミナがアリアの隣に座った。


「あなたの憎悪の根源は何かしら?」


アリアは考えた。自分はなぜ憎悪結晶を作ってしまうのか。


「...普通でいられないから、だと思います」アリアは小さく答えた。


「普通に暮らしている人に偽物を売りつけたり。頑張ってるのにどうしても貧乏だったり。ごく普通に暮らすことができないのが許せないんです」


アリアの脳裏に工場での出来事がよぎる。


「それよ」ルミナは微笑んだ。


「あなたの憎悪は、他者への思いやりから生まれている。現状を変えたいという純粋な意志よ」


ルミナは続ける。


「だから、あなたの憎悪結晶は美しい。人を傷つけるものではなく、むしろ人を守る力になる」


「守る...力」アリアはその言葉を繰り返した。


「ただし、使い方には注意が必要ね」ルミナは真剣な表情になった。


「感情結晶は、使い方を誤ると他者を傷つけることもある。だからこそ、あなた自身の感情を理解し、コントロールすることが大切よ」


「そのためには、まず自分自身と向き合うことから始めましょう」ルミナは立ち上がり、首にかけていた小さなペンダントを外した。


「これは調和の石といって、私の祖母から受け継いだ特別なもの。あなたに持っていてもらいたいの」


ルミナが差し出したのは、六つの異なる感情結晶の欠片を組み合わせて作られた美しいペンダントだった。


喜悦の金、悲哀の青、怒怒の赤、憧憬の淡紫、嫉妬の緑、驚嘆の銀が、まるで花びらのように配置されている。


中央には、それらを包み込むように小さな白い石が埋め込まれていた。


「これは...」アリアは息を呑んだ。「とても美しい...でも、こんな大切なものを私が」


「いいえ、あなたに必要なものよ」ルミナは微笑んだ。


「このペンダントは六つの基本感情の調和を表してるの。憎悪という感情も、他の感情とのバランスが取れれば、必ず美しい力になる。中央の白い石は『平衡石』といって、感情のバランスを整える効果があるのよ」


アリアがペンダントを手に取ると、温かく優しい光が手のひらを包んだ。


「ありがとうございます」アリアは深く頭を下げた。

「本当に、ありがとうございます」


長い間押し殺してきた感情が、温かな雫となって頬を伝った。それは悲しみの涙ではなく、初めて自分を受け入れてもらえた喜びの涙だった。


ペンダントの六色の光が涙に反射して、小さな虹を作っていた。

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