第3話 事故勃発、そんなキューッピットはいらない

 周囲の目を気にしながら示されたブースに行き、沙也が腰を下ろすと、祐司郎は少し身を乗り出すような格好で向かい合った。そして声を低めて話し始めた。


「お礼の件、沙也ちゃんはどうしてもいらないわけ?」

「会社でその呼び方はやめてください」

「神南さんが頑なに拒むのがよくわからない」


「それは私のほうです。お礼は充分してもらったと思っています。食事もごちそうになったし、服やアクセサリーなんかも買ってもらいました。全部、私には手の届かない高価なものばかりです。ホントに充分なんです。黒崎さんこそ、どうしてそんなに礼にこだわるんですか? 私がいいと言っているのに」


 祐司郎がじっとこちらを見つめてくる。怒っているのかと思うほど、真剣なまなざしだ。沙也はごくりと生唾をのみこんだ。


「なんでだろ、自分でもよくわからない」

「は?」

「でも、なんかもやっとするんだ。どうしてすんなり、うんって言ってくれないのかって」

「…………」

「それでこの二週間、よく考えた。で、出た結論なんだけ」


 ここで祐司郎が一度言葉を切ったので、沙也は反射的に「はい」と相槌を打った。


「フランソワーズと両親のことで、神南さんが俺にとってド真ん中だってわかったんだ」

「…………」

「つきあってほしい」

「…………」

「返事は今じゃなくていいんだけど」

「お断りします」

「……え?」

「お断りします。黒崎さんとは交際できません。私は地味で普通過ぎて、黒崎さんにはふさわしくないです。私には黒崎さんを狙ってる女性たちと戦えるだけのパワーがないです。ごめんなさい」

「…………」

「それにバレて社内の女性に総スカン食らうのも嫌です。失礼します」


 さっと立ち上がって頭を下げ、沙也は逃げるようにその場を後にした。その際、まるで氷の彫刻のように固まっている祐司郎が視界の端に入ったが、見なかったことにした。


 席に戻ると急いで帰り支度して会社を出た。心臓がバクバク鳴っている。


(なんで? なんで? なんで? なんで?)


 信じられない。誰か嘘だと言ってほしい。そんな思いがグルグルと脳内を巡る。


(ダメだ。早く家に帰って、お味噌汁飲んで落ち着こう!)


 電車に乗り込み、ドア付近に陣取った。と同時に、祐司郎の言葉が蘇ってくる。


――フランソワーズと両親のことで、神南さんが俺にとってド真ん中だってわかったんだ。つきあってほしい。


(まさか、そんな)


 営業成績社内トップクラス。イケメンで社内外の女性に大人気で狙っている者が大勢いる。医者一族でお金持ち。そんな祐司郎が、地味な自分をド真ん中なんてことがあるのだろうか。からかわれているのかとも思うが、あの時の祐司郎の顔は真剣そのものだった。


(うそ、どうしよう)


 全身が熱くなってきて、鼓動が強く打っているのがわかる。あまりのことになんだか吐きそうだ。


 電車が最寄り駅につき、家路を急ぐ。目前のところまで来て沙也はフンと妙に焦げ臭いにおいをかいだ。


(? なんだろ)


 ハイツに続く辻を曲がったところで足が止まった。


(え? なに、これ)


 ハイツ全体が水で濡れていて、西側の最端の窓が割れ、窓周辺の壁が黒く焼けている。また屋根の一部が焼け落ちている。沙也の部屋はその真下で、焼けてはいないが、放水をまともに食らっている。人の姿がないので、消防は引き揚げた後なのだろう。


(火事? うそ!)


 慌てて扉を開けて中に入ると、天井が濡れていて、ポタポタと雫が落ちていた。


「…………」


 四台の冷蔵庫はベッド下なので濡れてはいなかった。が、そのベッドでは布団が死んでいた。


「神南さん」

「あ、大家さん!」


 玄関から声がした。見れば大家が立っている。七十くらいの小柄な女性で、沙也を見てほっとしたように吐息をついた。沙也は慌てて大家に駆け寄った。


「会社だと思ってたけど、電話してもつながらないし、念のために留守かどうか中を確認させてもらったわ」

「え、えぇ」


 慌ててスマートフォンを見ると何度も着信の通知がある。祐司郎の件があって、まったく気づかなかった。


「すみません、仕事中はマナーモードにしているもので」

「いいのよ、無事なら。見ての通りでね。油に火が燃え移ったみたいで。ケガ人もいないし、まずはホッとしたわ。現場検証が終わって消防と警察が帰ったのがついさっきだったのよ。だけど……」


 大家はチラリと沙也を見てから視線を逸らした。


「こんな状態になってしまって。建物は古いし、耐震性のことを考えたら、修繕じゃなくて立て直しになると思うのよ。でも、私ももう年だし、立て直すか売るかは子どもに任せようと思って。なので、申し訳ないのだけど、なるべく早く退去をお願いしたくて」

「…………」

「ごめんなさいね」

「……いえ、それは大家さんのせいじゃないし」


 大家はよろしくと言って帰っていった。それを呆然と見送る。


(引っ越し? それもなるべく早く……無茶だと言いたいけど、火事じゃ仕方がない。でも)


 部屋を見渡しても、とても住める状態じゃない。建て替えるにしても一度は出ないといけない。


(今日はホテルに泊まるとしても、荷物はどうする? えーっと、えーっと)


 必死に考えようとするが、だんだん頭の中が真っ白になってきて、なんともわからない感情が込み上げてきた。どうしたらいいのだろうか。誰に相談していいのかもわからない。


 親は鎌倉だし、叔父に頼るのもどうかと思うし。


(なんで、こんな目に)


 涙があふれて止まらない。咄嗟に浮かんだのは、なぜか祐司郎の顔だった。と同時に、もし定時で帰っていたら、火事騒動の真っ最中に巻き込まれていたことだろう。


 それを認識した瞬間、沙也はスマートフォンを取り出し、無我夢中で電話をかけていた。


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