第三十話:生存者たちの独白
「……これから俺たちは、どうすればいいんだろうな」
桐谷海都の、その宙に浮いたような問いは、広瀬未央のがらんどうになった部屋の空気を、重く揺らした。答えなど、どこにもない。あるはずもなかった。彼らは、巨大な嵐を生き延びた。だが、その足元には、もはや、帰るべき穏やかな日常など存在しないのだから。
未央は、桐谷を部屋の中に招き入れた。彼が、あの事件の設計図が描かれた巨大なホワイトボードに、目を留めたのがわかった。だが、彼は何も言わなかった。
二人は、言葉もなく、ただそこにいた。共有できる言葉などなかった。共有できるのは、あの地獄のような記憶と、そして、その記憶によって、体に、魂に刻み込まれた、一生消えることのない、傷跡の痛みだけだった。
しばらくして、先に口を開いたのは、やはり桐谷だった。
「……見たよ。テレビで」
「……」
「お前のこと、みんな、『アノニマスを暴いた、女子高生ヒーロー』だってさ」
その言葉には、棘があった。非難ではない。嫉妬でもない。ただ、あまりにも現実とかけ離れた、世間のその能天気な評価に対する、やり場のない怒りと虚しさが込められていた。
「ヒーロー、ね」
未央は、自嘲気味に笑った。
「私は、ただ自分の手を汚しただけ。陽菜を、社会的に殺しただけです。彼女が私にしたことと、本質的には、何も変わらない」
「……それでも、お前は俺を助けてくれた」
桐谷は、自分の手のひらを、じっと見つめながら言った。
「あのステージの上で、お前の声が聞こえなかったら。お前が、あの映像を流してくれなかったら。俺は、本当に心を殺されてた。彼女の、ただの芸術品として、一生を終えてた」
「……」
「ありがとう、なんて言えない。言いたくもない。でも、俺が今、こうして自分の意志で、ここに立っていられるのは、お前のおかげだ。それだけは、事実だ」
その不器用な、しかし切実な言葉は、未央の凍りついていた心を、ほんの少しだけ溶かした。
自分は、間違っていなかったのかもしれない。
あの選択は、最悪の中の最善だったのかもしれない。
そう、思いたかった。
「……これから、どうするの? 先輩は」
未央は、尋ねた。
「さあな」
桐谷は、力なく笑った。
「絵は、もう描けないだろうな。筆を持つのが怖い。白いキャンバスを、見るのが怖い。彼女の、あの目がフラッシュバックする」
彼のその告白は、未央の胸に、重く突き刺さった。
一人の才能ある芸術家の未来を、自分は、陽菜と一緒になって、奪ってしまったのだ。
「でも」
桐谷は、続けた。
「……死んだ翔が、何をしたかったのか。あいつが彼女に、何を伝えたかったのか。それは少しだけ、わかる気がする」
彼は、窓の外の夏の終わりの、気だるい風景を見つめていた。
「あいつは彼女を、救いたかったんだ。彼女の才能が、閉じた世界で歪んで腐っていくのを、見ていられなかったんだ。やり方は、最悪だったけどな」
「……」
「俺は、翔みたいにはなれない。でも、あいつが遺した、その問いみたいなものから、目を逸らしちゃいけないんだろうな、とは思う」
その時だった。
未央のスマートフォンが、静かに震えた。
ディスプレイに表示されたのは、溝口刑事の名前。
未央は、桐谷に目配せをすると、通話ボタンを押した。スピーカーモードにして、二人でその声を聞く。
『……広瀬さんですか。今、お時間大丈夫でしょうか』
溝口の疲れた声が、聞こえてくる。
『橘陽菜の、処遇が決まった』
未央は、ごくりと唾を飲み込んだ。
『……心神喪失状態での犯行とは、認められなかった。だが、責任能力については、大幅な限定が認められる、とのことだ。彼女は、起訴される。だが、おそらく刑務所ではなく、医療少年院、あるいはそれに準ずる、専門の医療施設へ送られることになるだろう。無期限でな』
それは、法が下した、ぎりぎりの判断だった。
彼女は怪物ではなく、心を病んだ一人の少女として、扱われる。
『そして、母親の美咲だが……こちらも、起訴は難しいかもしれん』
「なっ……!?」
思わず、声が出た。
『彼女は、完全に壊れてしまっている。事件との直接的な因果関係を、法廷で立証するのは、困難を極めるだろう。おそらく、不起訴。そして、そのまま精神科病院へ措置入院、という形になる』
『綾波玲子だけだ。彼女だけが、犯人隠避と証拠隠滅の罪で、裁かれることになる。最も罪の軽い、彼女だけがな』
これが、現実だった。
あれほどの事件を引き起こした元凶たちは、法の下の明確な「罰」を受けることなく、社会からただ隔離されるだけ。
正義など、どこにも存在しなかった。
電話が、切れる。
部屋に、再び重い沈黙が落ちた。
「……そんな、ものか」
桐谷が、吐き捨てるように言った。
「ええ。そんなものなのよ」
未央は、答えた。
「でも、それでいいのかもしれない」
彼女は、窓の外を見つめた。空はもう、夕焼けに染まり始めていた。
「陽菜が、一番恐れていたこと。それは、刑務所に入ることでも、死刑になることでもない。彼女が、恐れていたのは、忘れられること。自分の芸術が、誰にも理解されず、ただ時間の中に風化していくこと」
「……」
「彼女は、これから一生、誰にも作品を見せることのない場所で生きていく。それは、彼女にとって死ぬよりも辛い、罰なのかもしれないわ」
未央は、立ち上がった。そして、壁のホワイトボードへと向かうと、そこに書きなぐられた、無数の文字と線を、一つ、一つ、丁寧に消し始めた。
自分の青春の、すべてを捧げた、この狂った捜査の記録を。
自らの手で、葬り去っていく。
それは、過去との決別の儀式だった。
そして、新しい自分として生きていくための、最初の一歩だった。
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