第二十八話:エピゴーネンの黙示録

 午後二時三十分。

 彩星芸術学園、エキシビションホール。


 その空間は、数千人の観客の、息をのむ音さえも吸収してしまうような、異様な静寂と極限の緊張に、支配されていた。


 ステージの中央。橘陽菜が突きつけた、悪魔の選択。

 共犯者になるか、殉教者になるか。


 二人の偽物の警備員に両腕を拘束され、なすすべもないように見える、広瀬未央。

 彼女の答えを、世界が待っていた。


 ステージ脇からは、相田に率いられた制服警官たちが、今まさに、なだれ込もうとしている。だが、彼らもまた、陽菜が手に持った、あの黒い小瓶をどうするかわからず、迂闊には動けない。


 すべてが、陽菜の描いた、脚本通り。

 誰もが、そう思った。


 陽菜自身もまた、その完璧な勝利を、確信していた。

 だが、未央は、陽菜の目を見て、静かに笑った。


 それは、諦めの笑みではなかった。

 すべてを、これからひっくり返す、反逆者の笑みだった。


「……残念だったわね、陽菜」


 未央の声は、彼女が、密かに胸元に仕込んでいた、超小型のワイヤレスマイクによって、クリアにホール全体へと響き渡った。


「あなたの選択肢は、どちらも、選ばない」


「え……?」


 陽菜の眉が、初めて、わずかにひそめられた。


「私は、言ったわよね。私のテーマは、『解剖』だと。ええ、そうよ。でも、私が、本当に解剖したかったのは、あなたという人間じゃない」


 未央は、そこで、一度言葉を切った。そして、ホール全体を見渡し、すべての観客に、そして、陽菜に宣言した。


「私が解剖するのは、あなたの、その空っぽで、盗品だらけの芸術よ」


「あなたを、神に祭り上げたその才能が、すべて借り物であるという、真実を。あなたは、神でも、天才でもない。ただの、哀れな模倣犯エピゴーネンに過ぎないという、事実を!」


 ――模倣犯。

 その言葉は、陽菜の、最も触れられたくない、聖域のさらに奥深くにある、核を直接抉り出す、呪いの言葉だった。


 陽菜の顔から、あの絶対的な支配者の笑みが、完全に消え失せた。


「……何を、言って……」


「わからない? なら、見せてあげる!」


 未央が、絶叫した。


「これが、私の答えよ!」


 その言葉が、合図だった。

 陽菜の背後にある、巨大なスクリーン。彼女が、自らの神託を映し出していた、その神聖な祭壇が、一瞬でハッキングされた。


 画面が暗転し、次の瞬間、そこに映し出されたのは、佐伯翔の、穏やかな生前の笑顔だった。


 ホールが、どよめいた。

 そして、未央が徹夜で作り上げた、地獄の映像作品が、始まった。


『彼は、陽菜ちゃんの才能を、誰よりも信じていました』


 友人たちの、涙ながらの証言。

 画面に映し出される、佐伯のノート。『彼女を、本当の世界に引きずり出す』という、彼の歪んだ、しかし、純粋だった願い。


 映像は、切り替わる。

 病院のベッドの上で、虚ろな目をしながらも、必死に言葉を紡ぐ、桐谷海都の姿。


『……あいつは、芸術家じゃない。ただの、人殺しだ。僕の心を、魂を、あいつは、自分の作品のために、弄んだんだ……!』


 その、生々しい告発。

 観客席から、悲鳴が上がり始めた。


 だが、本当の地獄は、ここからだった。


 画面が、二分割される。

 左側には、アノニマスの、神がかり的だと賞賛された、数々の作品。


 そして、右側。

 そこに映し出されたのは、今から二十年以上も前に描かれた、油絵の数々。それは、陽菜の母親、橘美咲が、心を病む前に発表していた、若き日の作品群だった。


 二つの、映像が並んだ瞬間。

 ホールにいた誰もが、息をのんだ。


 同じだったのだ。


 構図が。色彩が。光と影の、使い方が。被写体の、捉え方が。

 細部は違えど、その根底に流れる、思想、哲学、そして美学は、驚くほど同じだったのだ。


 陽菜の、神懸かり的な才能は、オリジナリティではなかった。それは、彼女の母親の、完璧なまでの模倣、そして、再現だった。


 アノニマスは、天才ではなかった。

 ただの、母親の亡霊に取り憑かれた、ゴーストライターだったのだ。


 映像は、とどめを刺す。

 橘美咲の若き日の写真と、綾波玲子の現在の写真が、並べられる。

 そしてテロップが、無慈悲に事実を告げる。


『協力者、綾波玲子は、警察の調べに対し、こう供述しています。「美咲の果たせなかった夢を、陽菜ちゃんが叶えてくれると、信じていた。あの子の芸術は、美咲の芸術そのものなのだから」と』


 陽菜は、ステージの中央で、立ち尽くしていた。

 その顔は、怒りでも、悲しみでもない。

 ただ、すべてを失った無、だった。


 自分が、人生のすべてを懸けて、創り上げてきた、芸術。神話。そのすべてが、偽物だったと、模倣品だったと、盗品だったと、全世界に証明されてしまった。


 神の座から引きずり下ろされた、彼女はもはや、神ではない。


 ただの、可哀想な、嘘つきの少女だった。


「……ああ……あ……」


 意味のない声が、彼女の唇から漏れる。


 観客席は、大混乱に陥っていた。「詐欺師!」「人の心を弄んで!」「殺人鬼!」という罵声が、嵐のように、ステージに降り注ぐ。


 偽物の警備員は、その場の異様な空気に、完全に呑まれ、未央の腕を離していた。


 その混乱の中を、溝口と相田、そして、武装したSATの隊員たちが、ステージへと駆け上がってくる。


 だが、陽菜は、彼らには目もくれなかった。

 その虚ろな瞳は、ただ一人、広瀬未央だけを捉えていた。


 憎しみも、怒りも、もはやそこには、なかった。

 ただ、空っぽの瞳が、そこにあるだけだった。


「……私の、作品を……」


 陽菜が、か細い声で、囁いた。


「……よくも、壊してくれたわね」


「壊したんじゃない」


 未央は、冷たく言い放った。


「これが、真実。これが、あなたの本当の姿よ、陽菜」


「あなたの『創世記』は、終わったの。ここにあるのは、ただの醜い、模倣犯のなれの果てだけ」


 その言葉が、引き金になった。

 陽菜は、絶叫した。獣のような、甲高い叫び声をあげて、彼女は、未央に襲いかかる……のではなく、ステージ中央の、あの巨大な、白いキャンバスへと突進した。

 そして、自らが最初に刻印した、あの黒い手形を、自らの爪で、めちゃくちゃに引き裂き始めた。


「いやあああああああっ!!」


 自分の、唯一のオリジナルだったかもしれない、その痕跡を、自ら破壊していく。それは、芸術家としての、完全な自殺行為だった。


 隊員たちが、暴れる陽菜を取り押さえる。

 彼女は、抵抗らしい抵抗もせず、ただ抜け殻のように、その場に崩れ落ちた。


 ステージの上。スポットライトの中。

 悪魔が、神が、そして、ただの少女が終わった。


 未央は、その光景を、ただ静かに、見つめていた。

 勝った、のだろうか。

 わからない。


 ただ自分が、親友だった少女を、その手で、完全に破壊してしまったという事実だけが、重くのしかかっていた。

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