第五幕
第五十話『紅袖の提案』
「だめだ。そんなこと認められるはずもない」
厳しい声色での否定に呉乃は顔をしかめた。
取り付く島もない。だが呉乃は諦めることなく食い下がる。
「お待ちください是実様。私は――」
「だめだと言ったはずだ呉乃。
「ただ仕えるという話ではありません。仕えるふりです。そうやってやつらの懐に潜り込み情報を持ち帰るのです」
呉乃の提案は単純だった。藤原
「情報だと? 近習とはいえただの
「……龍淵深不可測、夜光之璧出焉。不探龍淵、難得夜光」
「……なに?」
「龍の棲むところへ潜らなければ、夜でも輝く宝石を得ることはできない。ここへ置いてくれていることには深く感謝をしております。ですが、ときには龍の住処を侵すことも必要かと」
冷静な声色ながらも愚直な呉乃の言葉に是実はわざとらしくため息を吐く。
どうにも話が通じない。呉乃は口を引き結んで見るからに不服な表情で是実を見上げる。
なんとも無礼な態度だが是実は怒ることなく静かに首を横に振った。
「……よいか呉乃。確かにお前は賢い。知識もある。それを活かす知恵もある。さらにその知恵を工夫して実行する度胸も持ち合わせている。同い年どころか年上の者達すらお前にとっては退屈しのぎにもならぬだろう」
「いえ、私は決してそのようには」
「いいから聞け。お前には特別な才がある。だがそれだけだ。どれだけお前が賢かろうと
是実の言葉に呉乃は黙り込んでしまう。
分かってはいる。だが心のどこかで自分だけは違うという思いもある。
しかしそれこそが驕りだということに呉乃自身が気付いていなかった。
そしてそれを是実には見透かされていて、悔しくて恥ずかしくて声が出せなかったのだ。
「
「……ならばどうしろというのですか。このままここで燻っていろとでも? 私には母の」
「仇を討つというならなおのこと慎重に努めよ。
今は亡き母の名を出され、呉乃は袖の中に隠した手に力が籠る。
『生きるのです。母よりも永く、絶対に生き残るのです。そなただけでも生きて――』
同時に今際の際の母の言葉を思い出す。到底受け入れがたい母の最期の言葉が是実の言葉と重なり、呉乃の心に深く喰い込む。
これ以上言ってもどうにもならない。厳しい視線を向けてくる是実に対して、呉乃は不満を隠すように俯き「分かっております」とだけ言って頭を下げた。
呉乃の今の主人は是実だ。彼が駄目だと言えば従者である呉乃は動けない。
是実には恩がある。ぼろきれのような自分を救ってくれたばかりか、利用するためとはいえ厄介な素性の自分を家に置いてくれているのだ。
それだけじゃない。呉乃にさらなる教養を授け、側に置いてもらうことで世を知る機会も与えてくれた。
先ほど是実が言った知識も知恵も度胸も、ここにいたから手にれられたものだ。ゆえに彼の意に背くことなどできない。
それでも、呉乃は納得できなかった。母の仇を討つ機会を得られるかもしれないのに、危険だからと足踏みをするだけというのはあまりにも愚かだ。
出仕のため邸を出る主人の後姿を見送りながら呉乃は心の中で唾を吐いた。
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