9.「カルディア・ノアズグレイヴ」


 まっさらな、雪原のような空間。

 足元に雪が積もり、視界のすべてが淡い氷光に包まれている。


 その空間の中心に、一人の少女がいた。


 小さな背中。

 肩まで伸びた白銀の髪。

 手足に付けられた鎖。

 震えるほど細いその体が、膝を抱えて座っていた。


「……カルディア」


 私がそっと名を呼ぶと、彼女はびくりと肩を揺らし、ゆっくりと顔を上げた。


 まだ未発達な、小さな魔族の少女。

 あの、強くて冷たくて誇り高かった“氷牢カルディア”の面影など、どこにもなかった。


「あなたは、誰……?」


「私はナディア。あなたと……少し、話がしたくて来たの」


 彼女は目を細め、長く瞬きをする。


「ナディア。……そう」


 すこし微笑んで、カルディアが立ち上がる。その姿は、年相応の少女そのものだった。


「……ここに来るのは、あなたで三人目よ」


「三人目?」


「最初に来たのは、私の父。二人目は、魔王。そして三人目が、あなた」


 カルディアの表情がわずかに曇った。


「でもね、父は私を『置いていった』。魔王は『利用しに来た』。あなたは、どうなの?」


 鋭い問いだった。その裏に、どうしようもないほどの寂しさが滲んでいるのが感じ取れた。


「……あなたの心を知るために、ここに来たの」


 カルディアは驚いたように目を見開いた。


「じゃあ、付いてきて」


 彼女はゆっくり、歩き始めた。私もその隣に並んで歩く。


 空がにわかに揺れる。すると——景色が変わった。


 寒冷な魔族の村——現界ではない、おそらくは魔界のどこか。

 カルディアの幼少期の記憶だ。


「ここは……」


「私の故郷だった場所。小さな集落だけど、氷の血族として知られていたわ。”霊脈”を通じて、地脈と“語る”力を持っていた一族」


 霊脈——生者に力を与えるのが地脈ならば、それは死者に力を与えるもの。死霊術師ならば、地脈同様に、それがどれだけ大切な物かを知っている。


「でもね、一族は滅んだ」


 村は燃えていた。


 漆黒の軍勢。

 魔族でありながら、彼女の一族を粛清する兵士たち。


「“魔王”の命令よ。氷の血は危険だって。感情が薄くて制御不能、地脈に干渉できる力は、地脈の無い霊脈の上——死地に生きる魔族を脅かすって。だから、一族ごと……」


 そして——生き残ったのは、ただ一人。


「私は、生きてしまったの」


 景色が再び変わる。


 今度は——カルディアが“魔王”と出会う記憶だった。


「そして、魔王は言ったわ。“君の力を使わせてもらおう”って。最初は嬉しかった。誰かに必要とされるのは、初めてだったから」


 だが、それも長くは続かなかった。


「魔王は私の力を“兵器”としてしか見ていなかった。私の意思なんて、最初からどうでもよかったのよ。私の名前を呼んだことすら、なかったわ」


 氷の牢に繋がれ、研究され、魔力を絞られる記憶。

 そのどれもが、胸をえぐるような光景だった。


「それでも私は、信じたかったの。誰かの役に立てるって。でも……もういいと思った。せめて最後は、自分の意思で終わりたかった」


「だから、地脈と一つになろうとしたのね」


 カルディアは小さく頷いた。


「消えたかった」


 私は言葉を失っていた。

 この記憶を知った今、誰が彼女を“悪”と断じられるだろう。


 その言葉の奥にある、あまりにも純粋な自己否定に、私は心を突き刺された。

 消えたかった、なんて、そんな悲しいことがあっていいだろうか。


 私はそっと手を差し伸べた。


「私はね、あなたを殺すために来たわけじゃない。救うために、ここにいる。それが死霊術師の役目、でもその方法は、あなたを消すことなんかじゃない」


 私は、カルディアの手を取った。


「だから、私にあなたのことを救わせて——ゆるさせて欲しいの」


 ——風が吹いた。


 白銀の空間に、ありえないはずの風が吹き抜けた。

 それはまるで、長く閉ざされていた心が、そっと息をしたように。


 カルディアの瞳が揺れる。


「……赦す」


 彼女はぽつりとつぶやき、目を伏せた。


「ねえ、ナディア。赦されるって、どういうことだと思う?」


 問いかけるその声は、あまりにも静かで、かすかに震えていた。


「過ちを許されることじゃないわ。ただ……それでも生きていいって、言ってもらえることだと思う。死んだそのあとも、誰かが想い続けてくれることだと思う」


 私の答えに、カルディアはゆっくりと顔を上げる。


「……生きて、いい?」


 まるで、それがどれほど遠い言葉だったか、確かめるように彼女は繰り返す。


「今までは“誰かに使われて、捨てられた”そんな人生だったかもしれない。でも」


 私は、彼女の手を、強く握った。


「あなたが一歩を踏み出せば、”誰かにとって大切な人として生きられた”そんな人生になるかもしれない——いいえ、きっとそうなるわ」


 その瞬間だった。


 ——空が、砕けた。


 凍りついた世界が、音を立てて崩れはじめたのだ。


 足元の雪が消える。

 氷の花が咲くように、淡い光が大地を覆う。


「でも、私には魔王が居る」


 カルディアは、小さく震えながら言った。


「この鎖はずっと私を縛り付けるのよ」


 カルディアの声には、諦めと恐れ、そしてわずかな希望が入り混じっていた。


 その手首に絡みつく鎖は、見る者すべての心を重くする。魔力の枷。契約の印。罪と呪いの象徴。


「この鎖がある限り……私は、自由になれない」


 カルディアは悲しげに笑った。


「私は“魔王の兵器”なの。彼は、私の魂ごと、自分の一部にしようとしている」


 雪のような髪が風に揺れた。

 その言葉に、私はゆっくりと首を振る。


「そんなの、あなたが決めたことじゃないわ。無理やり奪われた意思に、あなたの未来を決める資格なんてない」


「……でも、抗えなかった」


「だったら、今、抗えばいい。私が力を貸す。今度は独りじゃないわ」


 私は左手を差し出す。

 死霊術師としての印が浮かび上がり、淡い紫の光が灯る。


「鎖を断ち切るわ」


 カルディアは目を見開いた。


「そんなこと、できるの……?」


「私は、死者を導く死霊術師だけれど——その中には、魂を解放するじゅつだってある」


 私は一歩、彼女に近づいた。


「でも、それには、あなたの“本当の願い”が必要なの。魂の核に刻まれた、誰にも吐けなかった本当の気持ち」


 カルディアの身体がぴくりと震える。


「……それを、誰かに教えるなんて、怖い」


「安心して、私はずっとここに居るから」


 沈黙が流れた。

 雪はもう溶けていた。この凍てついた空間は、半分以上が砕けている。


 けれど、最後の鎖だけが、いまだに重く鈍く、少女の手足を締めつけていた。


「……私の、本当の……」


 カルディアは、ぎゅっと唇を噛む。


「独りは嫌」


 カルディアの身体が震えた。


「私はただ、誰かに……愛されたかった」


 それは、自身にも重なる欠けた愛の感情。

 私にリカルド様が居たように、彼女にもきっと。


「私が居るわ」


 そっと手を伸ばしてカルディアを抱きしめた。


 鎖が、砕けた。

 甲高い音と共に、魔王の鎖が断ち切られ、光の粒子へと変わって舞い上がる。


「もう一人にはしない」


 彼女は、ぽろぽろと涙を流しながら、ナディアの肩に顔をうずめた。


「……ありがとう。ナディア。あなたが来てくれて、よかった」


 閉ざされた心の檻が壊れ、白銀の牢獄は淡く美しい光の中に溶けていく。


「……行こう。あなたの居場所は、もうここじゃない」


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