9.「カルディア・ノアズグレイヴ」
◇
まっさらな、雪原のような空間。
足元に雪が積もり、視界のすべてが淡い氷光に包まれている。
その空間の中心に、一人の少女がいた。
小さな背中。
肩まで伸びた白銀の髪。
手足に付けられた鎖。
震えるほど細いその体が、膝を抱えて座っていた。
「……カルディア」
私がそっと名を呼ぶと、彼女はびくりと肩を揺らし、ゆっくりと顔を上げた。
まだ未発達な、小さな魔族の少女。
あの、強くて冷たくて誇り高かった“氷牢カルディア”の面影など、どこにもなかった。
「あなたは、誰……?」
「私はナディア。あなたと……少し、話がしたくて来たの」
彼女は目を細め、長く瞬きをする。
「ナディア。……そう」
すこし微笑んで、カルディアが立ち上がる。その姿は、年相応の少女そのものだった。
「……ここに来るのは、あなたで三人目よ」
「三人目?」
「最初に来たのは、私の父。二人目は、魔王。そして三人目が、あなた」
カルディアの表情がわずかに曇った。
「でもね、父は私を『置いていった』。魔王は『利用しに来た』。あなたは、どうなの?」
鋭い問いだった。その裏に、どうしようもないほどの寂しさが滲んでいるのが感じ取れた。
「……あなたの心を知るために、ここに来たの」
カルディアは驚いたように目を見開いた。
「じゃあ、付いてきて」
彼女はゆっくり、歩き始めた。私もその隣に並んで歩く。
空がにわかに揺れる。すると——景色が変わった。
寒冷な魔族の村——現界ではない、おそらくは魔界のどこか。
カルディアの幼少期の記憶だ。
「ここは……」
「私の故郷だった場所。小さな集落だけど、氷の血族として知られていたわ。”霊脈”を通じて、地脈と“語る”力を持っていた一族」
霊脈——生者に力を与えるのが地脈ならば、それは死者に力を与えるもの。死霊術師ならば、地脈同様に、それがどれだけ大切な物かを知っている。
「でもね、一族は滅んだ」
村は燃えていた。
漆黒の軍勢。
魔族でありながら、彼女の一族を粛清する兵士たち。
「“魔王”の命令よ。氷の血は危険だって。感情が薄くて制御不能、地脈に干渉できる力は、地脈の無い霊脈の上——死地に生きる魔族を脅かすって。だから、一族ごと……」
そして——生き残ったのは、ただ一人。
「私は、生きてしまったの」
景色が再び変わる。
今度は——カルディアが“魔王”と出会う記憶だった。
「そして、魔王は言ったわ。“君の力を使わせてもらおう”って。最初は嬉しかった。誰かに必要とされるのは、初めてだったから」
だが、それも長くは続かなかった。
「魔王は私の力を“兵器”としてしか見ていなかった。私の意思なんて、最初からどうでもよかったのよ。私の名前を呼んだことすら、なかったわ」
氷の牢に繋がれ、研究され、魔力を絞られる記憶。
そのどれもが、胸をえぐるような光景だった。
「それでも私は、信じたかったの。誰かの役に立てるって。でも……もういいと思った。せめて最後は、自分の意思で終わりたかった」
「だから、地脈と一つになろうとしたのね」
カルディアは小さく頷いた。
「消えたかった」
私は言葉を失っていた。
この記憶を知った今、誰が彼女を“悪”と断じられるだろう。
その言葉の奥にある、あまりにも純粋な自己否定に、私は心を突き刺された。
消えたかった、なんて、そんな悲しいことがあっていいだろうか。
私はそっと手を差し伸べた。
「私はね、あなたを殺すために来たわけじゃない。救うために、ここにいる。それが死霊術師の役目、でもその方法は、あなたを消すことなんかじゃない」
私は、カルディアの手を取った。
「だから、私にあなたのことを救わせて——
——風が吹いた。
白銀の空間に、ありえないはずの風が吹き抜けた。
それはまるで、長く閉ざされていた心が、そっと息をしたように。
カルディアの瞳が揺れる。
「……赦す」
彼女はぽつりとつぶやき、目を伏せた。
「ねえ、ナディア。赦されるって、どういうことだと思う?」
問いかけるその声は、あまりにも静かで、かすかに震えていた。
「過ちを許されることじゃないわ。ただ……それでも生きていいって、言ってもらえることだと思う。死んだそのあとも、誰かが想い続けてくれることだと思う」
私の答えに、カルディアはゆっくりと顔を上げる。
「……生きて、いい?」
まるで、それがどれほど遠い言葉だったか、確かめるように彼女は繰り返す。
「今までは“誰かに使われて、捨てられた”そんな人生だったかもしれない。でも」
私は、彼女の手を、強く握った。
「あなたが一歩を踏み出せば、”誰かにとって大切な人として生きられた”そんな人生になるかもしれない——いいえ、きっとそうなるわ」
その瞬間だった。
——空が、砕けた。
凍りついた世界が、音を立てて崩れはじめたのだ。
足元の雪が消える。
氷の花が咲くように、淡い光が大地を覆う。
「でも、私には魔王が居る」
カルディアは、小さく震えながら言った。
「この鎖はずっと私を縛り付けるのよ」
カルディアの声には、諦めと恐れ、そしてわずかな希望が入り混じっていた。
その手首に絡みつく鎖は、見る者すべての心を重くする。魔力の枷。契約の印。罪と呪いの象徴。
「この鎖がある限り……私は、自由になれない」
カルディアは悲しげに笑った。
「私は“魔王の兵器”なの。彼は、私の魂ごと、自分の一部にしようとしている」
雪のような髪が風に揺れた。
その言葉に、私はゆっくりと首を振る。
「そんなの、あなたが決めたことじゃないわ。無理やり奪われた意思に、あなたの未来を決める資格なんてない」
「……でも、抗えなかった」
「だったら、今、抗えばいい。私が力を貸す。今度は独りじゃないわ」
私は左手を差し出す。
死霊術師としての印が浮かび上がり、淡い紫の光が灯る。
「鎖を断ち切るわ」
カルディアは目を見開いた。
「そんなこと、できるの……?」
「私は、死者を導く死霊術師だけれど——その中には、魂を解放する
私は一歩、彼女に近づいた。
「でも、それには、あなたの“本当の願い”が必要なの。魂の核に刻まれた、誰にも吐けなかった本当の気持ち」
カルディアの身体がぴくりと震える。
「……それを、誰かに教えるなんて、怖い」
「安心して、私はずっとここに居るから」
沈黙が流れた。
雪はもう溶けていた。この凍てついた空間は、半分以上が砕けている。
けれど、最後の鎖だけが、いまだに重く鈍く、少女の手足を締めつけていた。
「……私の、本当の……」
カルディアは、ぎゅっと唇を噛む。
「独りは嫌」
カルディアの身体が震えた。
「私はただ、誰かに……愛されたかった」
それは、自身にも重なる欠けた愛の感情。
私にリカルド様が居たように、彼女にもきっと。
「私が居るわ」
そっと手を伸ばしてカルディアを抱きしめた。
鎖が、砕けた。
甲高い音と共に、魔王の鎖が断ち切られ、光の粒子へと変わって舞い上がる。
「もう一人にはしない」
彼女は、ぽろぽろと涙を流しながら、ナディアの肩に顔をうずめた。
「……ありがとう。ナディア。あなたが来てくれて、よかった」
閉ざされた心の檻が壊れ、白銀の牢獄は淡く美しい光の中に溶けていく。
「……行こう。あなたの居場所は、もうここじゃない」
◇
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