日常の壊し方
文字を打つ軟体動物
日常
フライパンの縁で卵を二つ割り、じゅわりと音を立てるベーコンの上にかけて焼けるまで待つ。火を止めて塩と胡椒をかけたらベーコンエッグの出来上がりだ。くっついてしまった部分を切り離して、二枚の食パンにそれぞれ乗せる。皿に取り分けて食卓へと運ぶ途中で、誰かが起き上がる音が聞こえた。
「おはよう、要」
「おはよう母さん、今日の朝ごはんはベーコンエッグだよ」
「ありがとう、いつもごめんね」
「いいんだよ、仕事で疲れてるでしょ」
起きてきたのは、目に隈をたくわえた母さん。少し言葉を交わしたら、席に着いてベーコンエッグにかぶりつく。口の中に溢れ出したのは、濃厚な黄身。少し遅れて、ベーコンの脂がじゅわり。うまい。卵も値上がりしてすっかり高級品になってしまったが、それでも週一くらいで食べたいものである。
「……おいしい、ありがとう要」
「毎日お礼なんて言わなくていいよ、母さんは仕事してるでしょ、役割分担だよ」
「ごめんね……ありがとう……」
いつものように母さんは、唱えるように謝ってくる。止めることはしないけど、あまりいい気分とは言えない。むしろ母さんの重荷になっている自分のほうが謝りたいくらいだ。
その罪悪感を加味してもこの一日の始まりは心地よいものであり、ささやかな幸せというものを体現しているかに思える。それは、大きな幸せを掴むことを諦めた僕にとって、生きる活力であり、意義でもあるのだ。
食べ終わって食器を片付けると、僕と母さんは各々の準備を始める。僕は学校、母さんは仕事。荷物をまとめて制服を着て、ドアを開けた僕と母さんは向き合って口を開く。
「「いってきます」」
見るものもなく、四季の変化が乏しいにも関わらず僕にとって通学路というものはそこまで退屈でもない、なぜなら。
「要、おはよ!」
「おはよう、立浪さん」
立浪燐音、彼女がいるからである。彼女は幼馴染であることにかこつけて僕をつきまとい、聞いてもいないことをべらべらと喋ってくる。僕に対する好意を全面に押し出しておきながら、面と向かって伝えることができない。立浪は、ベタなラブコメのヒロインみたいな人間だ。でも、僕は鈍感系主人公じゃない。気付かないふりをしているだけだから、好意に気付いてゴールインなんてことにはならないのだ。
「また苗字で呼んで……私たち幼馴染でしょ、もうちょっと距離近くてもさぁ」
「あー、聞こえないなー」
「そんなことより!高田さんの噂聞いた!?」
目の前の背が低い活発な少女は、唾を飛ばしながら延々と知らない人のことを話し続ける。僕は相槌を打って、少し微笑んで、聞き流す。
「それでね、近づいてみたらビニール袋じゃなくて猫だったんだって!」
立浪はそう言って、腹を抱えながらぎゃはは、と大声で下品に笑う。そう楽しそうにしていると、こちらまで明るい気分にされてしまいそうで目を逸らした。
「ねーねー、今日の時間割なんだっけ」
「社英数物体漢」
「ありがとー!」
学校に近づいてやっと、立浪は時間割を確認する。それなら教室に張ってある時間割表でも見ればいいのに、毎日聞いてくるのだ。教えてやらないと騒ぐので、覚える羽目になってしまった。つまり僕は、立浪に駄々をこねた際の成功体験を与えてしまったのである。
「ねえ、今日の昼は中庭きてよ」
「嫌だけど」
「えー!やだやだやだやだ!おねがーい!」
「はぁ、いいよ」
「やったー!」
だから、このように要求を通されてしまうのだ。なんたる屈辱、自分のちょろさが恨めしい。まあ立浪は悪いことだけはしないので、安心はできるのだが。
校門をくぐって昇降口で靴を履き替え、僕と立浪はそれぞれの教室へ向かう。朝の廊下は生徒で溢れ活気に満ちており、教室もまた然り。僕に声をかける立浪のような物好きがいないせいか、うるさいのに寂しい。あまり居心地がいいとは言えないそこで、今日も朝礼が始まる。
「新田〜」
手を挙げると、強面の担任は少し頷いて野太い声で点呼を続ける。
「井田〜、伊藤〜、伊藤いないのか?」
元気よく手を挙げる人、頷くだけの人、十人十色、しかしいつも通りの反応が返され、担任は教室を出ていく。入れ替わりで入ってきたのは苦手な社会科教師、寝た振りをして目が合わないようにやりすごす。そして、目を閉じてしまった僕は、沼に沈むようにゆっくりと絡みつく微睡みに襲われる。このままでは振りじゃなくなってしまう、そんなことを思いながら、僕は眠りに落ちた。
ゆさゆさと肩を揺すられて、起きてみればそこは誰もいない教室。いや、僕と立浪だけがいる教室だ。僕は寝ぼけた頭を回して、言葉をひねり出す。
「なんで誰もいないの……?」
「六限までずっと寝てたんだよ、ありえなさすぎ!」
それは確かにありえない、きっとこれは夢に違いない。そんな冗談はおいておいて、このままでは次のテストも赤点だらけになってしまう、とてもまずい。
「いつもは午後だけ起きてるよ」
「留年するよ!要が留年するのやだ!」
「うちの学校、体面を気にして留年も退学も出ないの知ってるでしょ。卒業までいければなんでもいいよ」
「ならよし!じゃあ中庭いくよ!」
そういえば昼休みに来いと言われていたような、そうでないような。そんな曖昧な感覚を抱えながら、僕は中庭へと連れられる。微妙な風通しとどんな時間でも影に覆われるその立地から人のいない中庭、そこまで青くない空の下。立浪は手に持った箱をこちらに突き出す。
「要、いつもひるめし持ってきてないでしょ」
「ばれた?」
「ばれた、じゃないよ!ちゃんと食べなさい、ほら」
立浪はその箱で僕のお腹をつっつく。ほらってなんだ、と思ったがそういうことか。
「……弁当?貰えないよ、立浪がちゃんと食べて」
「私の分はちゃんと食べた!これは要のぶん、つくったの!」
「わざわざ作って……?ありがとう……」
「えへへ、練習したんだよ!」
立浪に女子力と呼べるものがあったことに感動しつつ、腹に押し付けられた弁当を受け取る。開けてみれば、不格好な卵焼きに焦げたウィンナー、一切れが小さすぎるブロッコリー。口に入れれば、料理を始めた頃の自分を思い出す味。
「ありがとう……おいしい……」
「これから毎日作るからね、ちゃんと食べなさいよ!」
「わかった……ごめんね……」
「謝らない、私はやりたくてやってるんだから!」
ありがとう、ごめんね。頭を埋め尽くす言葉が溢れ出てしまいそうで、僕は口をつぐむ。いつもの母の気持ちはこのようなものだったのか。情けなさと罪悪感が入り混じったこれに、名前をつけるのはやめておいた。
「そういえば部活はどうしたの、バド部は月火木だったよね?」
「サボった!」
「サボったかぁ、ならしょうがないね」
「うん、しょうがない!」
笑顔でそう言うと、立浪は食べ終わったあとの弁当箱をすごい力で奪い取って胸に抱く。ちょっとばかし強引なのだが、別に嫌な気分になってはいないし弁当を作ってもらった手前文句は言えない。
「それでさ、これから予定ある?」
「ないけど……」
「じゃあ秘密基地に行くよ!これ強制ね!」
「はーい、連行されまーす」
秘密基地、懐かしい言葉だ。そこが五年以上の月日を経てどのような姿になっているか楽しみであるのと同時に、知らない子供たちに乗っ取られていないかなど怖くもある。小学生のころ裏山に作ったそれが今でも残っているかはさておき、僕たち二人の思い出の場所であることは確かなのだから。
覚悟を決めてやってきた裏山、といっても木が生い茂る丘のようなものなので迷うほどの大きさではない。いや、幼少期に迷った経験はあるのだが今の年齢では余程の方向音痴でないと迷うことはないだろう。そんな小さな山を前にして、僕たちは思い出話に花を咲かせる。
「久しぶりに来てみたら鳥の巣できててさ!要が「卵食べてみよう」って言ったのよ!ねぇ、覚えてる?」
「今思い出したよ、そんなに昔のことよく覚えてられるね」
「そりゃあ、要との思い出ですから?」
そんな会話の中、到着したそこを見て呆然とする。だって、大きなモミの木の下。段ボールで作られたその家は、いつかの秘密基地と同じだったのだ。雨に濡れて乾くことでできたしわ、中に置いてあるお菓子入れ、懐かしさが押し寄せてくる。
「どう?驚いたでしょ!ずっとそのままにしておいたんだよ!」
「段ボールは朽ちたりとか」
「だめになる度に取り換えてたのさ!」
「でも、なんで」
そう口に出しかけると、立浪がむすっとした顔でこちらを見つめてくるのでわけもわからず言葉を飲み込む。今度は「よろしい」なんて言いたげな顔でこちらを見てくるものだから正解だったのだろう。
「さーて、あがってらっしゃい要くん。女の子のお部屋に二人きりですよ?」
「靴は脱いだ方がいい?」
「土足NG!」
僕は靴を脱いで段ボール製の小さな家に潜り込む。蹲らないと入り切らないくらいの狭さが心地よい。
「入らないの?」
「狭いでしょ、交代で入るの!」
「なるほど」
確かに高校生二人で入れる広さではない。大きくしようとは考えなかったのだろうか。
「お菓子いる?」
「じゃあグミ一粒」
立浪は僕の隣に置いてある菓子入れに手を突っ込み、オレンジ色のグミを取り出す。
「はーい、どうぞ!」
もらったグミを口に放り込み咀嚼する。甘酸っぱくて弾があり、無難においしい。
「ん、ありがと」
「味確かめてから言った!」
「特に意図はないよ」
激辛を掴まされる可能性があった手前、仕方のないことである。といっても、最後に悪戯をされたのは小学生の頃なのだが。
「ほんと?」
「疑り深いなあ」
「だからほんとなの?」
多分、僕は立浪のことが好きだ。告白すれば幸せになれる、そんな気がする。でも駄目だ、幸せになんかなるべきじゃない。幸せになったら、失うものができる。いつか来る終わりに怯えることになる。だから。
「ほんとなの、って!」
我に返る。どう誤魔化そうか。
「ふふ」
「ふふってなんだよ!」
こうして楽しい時間を過ごしているうちに日は暮れ、帰宅の時は訪れる。立浪は大げさに泣き真似をしながら僕の腕を掴み、引き留めようとしてくる。
「立浪も早く帰らないと、お母さんが心配するぞ」
「いいもーんだ!」
「よくない、ほら帰るぞ」
こうして掴まれた腕を引っ張りながら帰路につき、マンションへと辿り着く。諦めたのか、立浪はそこで別れて自分の家へと帰っていった。階段を上り、ドアを開け、僕は言う。
「ただいま」
おかえりなんていう声は聞こえず、ただ僕の声だけが部屋に響いた。
おかしい。いつもなら母さんはもう帰ってきているはずである。仕事が長引いてしまうことはありえない、母さんの体力では長時間働けないからだ。要するに……ああ、もういいや、とりあえずご飯を作って、それから考えよう。
考えることをあきらめた僕は、冷蔵庫から玉ねぎと鶏もも肉を取り出す。それぞれちょうどよく切って、まずは鶏肉をいい感じに焼く。焦げ目がついたら取り出して、そこに玉ねぎを投入。玉ねぎがふにゃふにゃになったら弱火にして、鶏肉をもう一度入れる。そこに醤油やら砂糖やらみりんやらをかけて混ぜたら完成だ。今日食べる分を皿に盛り付け、残りをタッパーに入れて冷蔵庫へ。炊飯器に研いだ米と水を入れてスイッチオン、これで母さんを迎える準備は整った。あとは一緒に食べるだけである。
とは言っても、母さんが帰ってくる気配はない。少し疲れてしまったし、仮眠をとるとしようか。机の上に「少し寝ます、帰ってきたら起こしてください」と書いた紙を置いて、僕は布団に飛び込み、そして。
痛み?
布団の中の何かにぶつかり、びっくりして飛び退いた僕は、そこでやっと布団が盛り上がっていることに気付く。母さんが疲れて寝てしまったのだろう。
「飛び込んでごめんね母さん、気付かなくて。夕飯できたよ、起きておいで」
返事はない。
「おーい、母さん。大丈夫?」
おそるおそる布団をめくり、驚く。そこにいるのは確かに母さんだ。長い睫毛、整った鼻、ほくろの位置さえ違わぬ姿、姿形は何も変わっていない。肌に触れてみればほんのりと温みを感じる、ただそこに横たわっているだけの母さん。でも、それには、生きた人間にはある何かが欠けていて。まるで精巧な人形かのように思えた。
目に映る情報のすべてが、一つの答えを叫んでいる。母さんは死んだ。日常が崩れ始める。
僕は当然一睡もできず、朝は無情に訪れる。母さんだったものに触れてみれば、昨日あった少しの温度も嘘のように冷たい。本当に死んでしまったんだな、僕はすんなりと母さんの死を受け入れていた。いや、受け入れざるを得なかったのかもしれない。だって、これはどうしようもなく現実で。そこにいる母さんが生きていないって、嫌でもわかってしまうから。わかって尚受け入れないのなら、母さんに嘘をついたことになってしまうから。
母さんという心の支柱を失ってなお、僕は平然と生きている。それとは裏腹に、食事、片付け、洗濯、その全てがどうでもよかった。妙な落ち着きと混ざった自暴自棄を感じながら、学校の準備を済ませる。僕は荷物をまとめてドアを開け、母さんだったものへ向かい、言う。
「いってきます」
いつもの通学路、いつもの立浪、いつも通りじゃない僕。一人死んだくらいで、世界は何も変わらなかった。
「要さ、今日へんだよ」
無視する。
「なんで無視するの」
目を逸らす。
「答えてよ」
歩みを早める。
「ねえ、答えてってば!」
このまま慰められて、楽になって、立浪が好きだって認めてしまうこともできた。でも、駄目なんだ。それでは、幸せになってしまう。失うものができてしまう。失くすくらいなら、最初からないほうがいいんだ。だって幸せは終わる、証明されただろう?
早歩きの僕と並ぼうと駆ける立浪は、そのまま進んで学校に着く。そして、いつも通り賑わう教室で、今日も朝礼が始まる。
「新田〜、井田〜、伊藤〜、伊藤はまた遅刻か?」
強面の担任が野太い声で点呼をしていく。日常を繰り返すような反応が返され、担任は教室を出ていく。入れ替わりで入ってきたのは、僕が特に何の感情も印象も抱いていない数学教師。しばらくして授業がはじまり、昨日の続きらしい授業が始まる。
「ここでΔαに0を代入しちゃうと、分母が0になってしまう。だからこうやって式整理をしてから代入を……」
頭に入ってこないのはいつも通り、そのまま授業が進んでいくのもいつも通り。母さんがいなくても、いつも通りに世界は回っていく。ああ、いつも通り、いつも通り、いつも通りいつも通りいつも通りいつも通りいつも通り、頭がおかしくなりそうだ。
「おい、新田!急に立ち歩いて、どこに行くんだ」
新田?あ、僕か。そうだった。新田要が僕の名前、十六年間変わっていない事実だ。それで、その新田要は何を。
何をって、それは当然授業から逃げようと思って。行き先を決めていなかったな、どうしよう。
「新田!おい、止まれ!」
教師の騒ぐ教室を後にして、僕は学校から駆け出す。こんなところにいては、狂ってしまうだろうから。
裏山、秘密基地。狭い段ボールの横、大きなモミの木の下で現実逃避のためにスマホを取り出したところで、消えてしまったかに思われた激情が少しずつ溢れる。激情は憎悪として形をなし、その矛先は世界に向いた。母さんが死んでも回っていく世界、そんなもの、壊れてしまえ。そんな思考が頭を巡り、僕は反射的にスマホで検索する。「世界の壊し方」と。
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