6/ 二人はいつも同じ夢を見る

 私は生まれてから今まで、夢を見たことがない。

 将来の夢だとか空を飛ぶ空想だとか、そういった起きているときの漠然とした想像の話ではなくて、人が睡眠中に遭う現象のことだ。

 だから私は、夢というものを知らない。

 それが一体どんな感覚を伴うものなのか、経験したことがない。

 悪夢なんてそれこそ、私にとっては言葉だけが独り歩きしている御伽話だった。


 けれど、今は違う。

 掴むには短く、一夜にも満たない幻だったのかもしれないけれど。


 それでも、私はこの夏に一度だけ、とても懐かしい悪夢を見た。

 

      ◇

 

 そこは、真っ白な地平線の世界。

 幼い私と飢えたケダモノ。ふたりだけの閉じた空間。


 ……この光景を、私は覚えている。


 私が、まだ人として目を覚ましたばかりの頃。

 そして、同時に彼と初めて出会った頃の、もう十年以上も前の記憶だ。


 私よりも遥かに強靭な肉体を持った狼が、どこからともなく伸びた、それも建造物を壊す用の重機に使われるような頑丈な鎖に繋がれ、純白の大地に臥せている。首と四肢にそれぞれ。雁字搦めの姿。狼の体毛は星明かりのない夜空を思わせるように、果てしなく純粋に黒く、ぽっかりと白を穿つ歪な孔のようだった。


 当然のことだけど。

 幼い私にとって、あの狼はとてつもなく恐ろしいモノとしか思えなかった。

 

 ──気持ち、悪い。あれはなに?

 最初は、それだけの恐怖しか抱けなかった。

 

 ぎょろり、と血走ったように紅い瞳が爛々と覗く。

 視線は執拗なまでに、私のことを捉えて離さない。

 まるで、血の滲むような、どろりとした殺意。

 あの周囲の空間だけ、赤くどす黒い渦を巻いているようで、思わず、吸い込まれそうだった。


 私が悲鳴をあげそうになる。けれど、直前で飲み込んだ。

 それだけはどうしても、してはいけない事に思えたから。


 オオカミが唸る。肉厚の鎖で身動きは封じられているので、その場を微動だにしない。それでも牙を剥いた口端から、涎がぽたぽたと垂れ出していた。とても、苦しそうだった。


「…………」


 決心がついたのは、その姿がきっかけ。

 まず話しかけてみようと思った。

 ずっと、そうしたいと思っていたような気がした。

 一歩踏み出し、恐る恐るケモノに歩み寄る。


「……ね、ねぇ」


 怯えるように、嘆くように。縊り殺すように。

 ケモノは依然として、じりじりと近寄る私を睨みつけている。

 足が止まりそうになる。けれど、悲鳴だけはあげてはならない。

 それはきっと、相手に対して、とても卑怯なことだから。


 だからちゃんと、向き合わないといけない。

 まずは初めの邂逅として。深く深く、焦らず呼吸を整えた。

 それから意を決して、目の前のオオカミに問いかけた。


「アナタの名前は、なんていうの?」


 

 思い返せば、この時の私たちはお互いに、自分の名前すらろくに知らなかった。

 だからこそ。

 たった三日間の思い入れに過ぎないけれど。

 彼の空間をも震わせる遠吠えは、必ず、私を呼ぶ声だった。

 

      ◇

 

 ああ、狼の遠吠えが聴こえる。


 ……彼が──弥月が、私を呼んでいる。


 重い目蓋を開けると、そこは怜耶の寝室。柔らかなベッドの上。

 そして、一筋の光も許さない暗黒の只中だった。

 木造の扉を一枚隔てた向こう側では、物々しい気配が蠢いている。

 弥月もそこにいる。

 理由は判然としない。

 思考だって取り留めもない。

 でも、行かなくちゃいけない。

 取り返しがつかなくなる前に。

 私が、彼のことを止めないと。

 辿々しい足取りのまま、扉の取手に縋りつく。

 扉を押し開けると、狼の姿に戻った弥月が、怜耶に飛びつく寸前。

 私は咄嗟に彼の名前を、力の限り叫んだ──。

 

 あとは無我夢中に駆け出して。

 弥月の首元にしがみつき、それから、意識を落とした。

 

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