1-2

 ……夢心地から目を覚ますと、不意に蝉の声が撓んだ。

 初めにちょっと間延びして、それ以降は衰え知らずの山彦のようながなり声。目覚ましとするにはノイズが酷いラジオのようで、着信音みたいに変えられたらいいのにと益体もなく思ってしまう。

 ふぁ、とあくびが漏れる。

 側臥位から仰向けになり、ぼぅと木目の天井を眺める。

 私は微かに埃臭さのあるベッドの上で横になっていた。純白のシーツはパリッと固め。掛け布団は薄い毛布が一枚。上品な濃い赤毛。手触りは滑らかではあるけれど、私が苦手とする色合いで、それに覆われているとなると、なんとなく気が滅入ってしまう。

 気怠い熱っぽさは指先まで領土を拡げている。慣れない環境で眠っていたから、おそらく疲れが抜けきっていないのだろう。


 体を起こし、つい癖で四方の壁を右手から順に見上げていくけれど、いま私がいる部屋に時計はなかった。むしろ時計どころか、この部屋の家具はベッドのみだ。飾り気のない漆喰は絵を描く前のキャンバスめいて、未完成のまま放り出されたかのような印象を受ける。


「っ───…」


 ぐらり、と瞳が震える。

 目の前の景色が二重に押し寄せる。

 純白の壁が途端に目前まで迫りくる圧と、遠く隔たってしまう心細さ。目を疑うような視界不良。もちろん、どちらも錯覚だ。どうやら、本格的に体調を崩してしまったのかもしれない。

 しかたなく、私は窓のほうを向いた。

 レースのカーテンさえ掛かっていない木枠の窓は、鬱蒼と伸ばしっぱなしの森林の影を満遍なく写し出していた。だから部屋の中は窓のない学校の廊下のように仄暗く、涼しげに感じられる。日差しの鮮彩さと傾きから推し量るに、少なくともまだ午前中らしい。


 その時、こんこんと部屋の扉がノックされた。

 私は思わず音のしたほうを振り返り、


「はい」


 と、起床直後の上擦った声で返事をすると、ガチャリ。扉が開いた。


 コツコツと軽やかな足音とともに部屋に入ってきたのは、記憶より大人びてはいるものの、懐かしい顔だった。紺色のワンピースに身を包み、日陰によく馴染む濡羽色の髪の毛は腰まで垂れ、それらとは対照的に覗く肌の白さは透き通る陶器のよう。


「おはよう、梓乃。昨日はよく眠れたかしら」


 巌貫いわぬき怜耶れいか。中学二年の夏頃までいつも一緒だった、たった一人の私の親友。つんと取り澄ますような表情は、二年前と比べるとより堂に入っていて、そこはかとなく冷たさを増していた。

 背後には大人の女性を侍らせている。年はたぶん私たちとそう遠くなく、かちこちに固まった相貌は人形を彷彿とさせた。昨日の夜に聞いた話では、新しく雇ったお付きの人だとか。怜耶の両親は度を越した過保護なので驚きはない。むしろ今更という感想が先に来るくらいだった。


 挨拶も早々に。怜耶は私のすぐ横まで歩み寄ると、ベッドに腰掛けて、そっと目線を合わせてきた。その際に音はしない。そんな振る舞いもさることながら、声もすっかり大人びた落ち着きを払い、凛とした響きをしている。私とは違って、無理に背伸びをしているようでもない。見惚れてしまうほど自然体だ。


「ええ、おかげさまで」

「嘘ね」


 私の見栄は、怜耶にあっさりと微笑み返されてしまう。


「梓乃は相変わらず、嘘が下手ね。それがあなたの美徳でもあるし、可愛げでもあるのだけど」

「だって、せっかくのお泊まりなのに、体調を崩しちゃうのってなんだか、みっともないでしょ。子どもみたいで」


 ふっ、と怜耶が笑みをこぼした。一瞬、白い息を幻視する。幽玄な儚さと、うつくしさ。隣で眺めれば眺めるほど、目を奪われる。怜耶の容姿はまるで山奥に棲まう雪女みたいだ。


「そういう言い訳こそ子どもじみているけれどね。あなたはいつも気張りすぎなのよ」


 ほんと変わらない、と呟く声は穏やかそのもの。すると、怜耶が胸元に手を添え、急に咳き込み出した。私は慌てて、怜耶の背を摩る。さっきの印象とは異なり、この時の怜耶の背は一段と儚く見えた。しばらくすると落ち着いたようで、怜耶が「もう、大丈夫だから」と私を手で制した。

 怜耶は生まれつき肺が弱い。中学に上がる頃には体の成長に合わせて症状も治っていたように記憶しているけど、また再発してしまったらしい。


「難儀よね」と、怜耶は皮肉げに笑う。

「でも気にしないで。昔よりはよくなっているもの」


 それこそ、私には下手な嘘に思えてならなかった。でも、毅然と強がる怜耶を否定する気にもなれず、私は曖昧に眺めていることしかできなかった。

 


 はかま森は、N県上根市西部に位置する、丘陵に築かれた閑静な住宅地だ。周囲を背の高い広葉樹林に囲まれ、その坂の頂上には、ひっそりと佇む和洋折衷の大きな建物がある。昔から不穏な噂が絶えないことで近所の方々からは長らく敬遠され続けている地主の幽霊屋敷。そこが私の現住居にあたる。


 近所に二つ目の幽霊屋敷の噂が立ったのは、高校が夏休みに入ったばかりの頃らしい。私の住まう屋敷を時計でいう十二時の位置とするなら、二つ目の幽霊屋敷は二時辺りとかなりのご近所になる。


 曰く、誰もいないはずの屋敷から、人の歪な笑い声がする。


 一年以上も人の住んでいなかった屋敷に明かりが灯っていた。蒸し暑い夜に白い霧が屋敷を取り巻いていた。青白い容貌の女が近所の人間を連れて、屋敷のほうへ向かって以来、姿を見なくなった。女の周囲にはうっすらと霧が漂っていた。そういった伝聞、目撃談の寄せ集めが神秘性を囃し、幽霊屋敷の噂は瞬く間にはかま森中を駆け巡ったのだとか。

 そんな噂が私の耳に入ったのは、噂の発生からおよそ一週間後の八月二日。つまり一昨日。怜耶と二年ぶりの再会を果たした、その夕暮れ時のこと。私の場合、物事の順序が逆だったと言える。はかま森ふたつめの幽霊屋敷。そんな噂話の存在を、その屋敷の住人である巌貫怜耶の口から直に教えられたのだから。

 けれど、もし仮に噂のほうから先に知ったとしても、私は懐疑的な立場を取ったと思うのだ。


「世の中、悪戯がすぎる風評が多くて困ったものね」と、夕食時、怜耶が一笑したように。私だって鼻で笑い飛ばしてやりたい。


 だって、私はとっくにその噂の主役である建物の内部にお邪魔し、何事もなく一晩を過ごすことができている。近所であることは、ここまで来るとごく当然の帰結。噂の幽霊屋敷は、紆余曲折を経つつも、私の親友が今でも住まうちゃんとしたお家なのだから。

 


 洗面所を借り、身支度を整え、一階の食堂に向かう。

 幽霊屋敷と噂され、二年ほど空き家だった洋館の内装は、思いのほか綺麗に整っている。絨毯の紅は以前上がらせてもらっていた頃に比べるとすっかり色褪せ、若干の埃臭さはやはり屋敷全体を通して拭いきれていないけれど、怜耶とご両親が戻ってきてからまだ日が浅いようなので、それは仕方のないことと割り切るしかない。

 階段を降りる途中から窺えるエントランスの様子は、玄関の曇りガラスが陽射しを受けて仄かに照り輝き、水底のように静まっていた。赤を基調とした彩色は、そのほとんどが陰の内に潜もうとも、負けじと威厳を誇示していた。

 ……赤は、壁にこびりつく血色を連想させる。胸の奥がざわつく。弥月なら、この気分の悪さを高揚と受け取るのだろうけれど。私にとって、その燻んだ鮮やかささえも目に毒だ。そうなると、屋敷中が私を侵す毒になってしまうけれど、怜耶にはとても言えない。

 

『───私ね、お父さまとお母さまにはどうしても苦手意識が拭えないのだけれど、お屋敷のことはとても気に入っているの。ここは、いつもとても静かだから』

 

 小学校を卒業したばかりの、まだ肌寒さが残っていた仲春。庭に置かれたガーデンテーブルとチェア。爽やかな緑の香りとそよ風が取り巻き、ゆったりと紺青の空を見送った。怜耶も私も、その時は確かな解放感に身を委ねて、何気なく笑っていられた。思い返せば、そう打ち明けてくれた日から、もう三年ぶんの季節が過ぎ去っている。

 学校など周囲との折り合いがうまくつけられなかったあの頃の私たちは、二人で逃げ込むようにして、たまにこの屋敷で放課後を過ごすことがあった。決まって怜耶のご両親が屋敷を空けている日だった。

 これは本を閉じたように穏やかだった頃の名残り。湧き起こった懐かしさについ足を止めただけ。束の間の回想だ。


 みーん、みんみんみん。

 曇る陽射しの奥より。

 蝉の声が共鳴し、耳道に傾れ込む。


「……また」


 今は夏。空気の鎮まった屋敷の中とは裏腹に、外界は茹だるような熱気と湿気との荒波で揉まれていることだろう。怜耶がなにも告げずに私の前から忽然と去ってしまった二年前も、ちょうどこんな暑い季節だったことを思い出す。

 その訳を、私はいまだ聞き出せずにいる。


 

 階段を降りてすぐ左手の扉を開け、さらに薄暗くなった廊下を通り、間もなくして、食堂に繋がる両扉の仰々しい金色の取手が目に入った。

 左側の片方だけを握り、そっと押し開ける。

 白々とした日光の走りが一瞬で私の全身を包み込む。

 正面奥の壁には、小学校の頃、音楽の授業で歌う歌に登場するような古めかしい時計が掛けられていて、擦れたガラスの小窓の奥でカチコチと振り子を揺らしていた。時刻はまだ朝の八時を回る前だった。

 食堂では、すでに怜耶のご両親が着席していた。上座には怜耶のお父さんが、左辺一番奥の席には怜耶のお母さん。どちらもきっちりとしたスーツ姿で、西洋風の装飾が目立つ礼拝堂めいた食堂の雰囲気とは微妙にそぐわない。この現代ならそうでもないはずなんだけど、どちらもそっくりと錯覚するくらい、瓜二つの笑みを浮かべているせいかもしれない。余分だらけの空間に比べると、あの人たちの表情はすっきりし過ぎている。


 ……無言で私のことを見てくる。


「おはようございます」


 と、できるだけ和やかに挨拶すると、お二方が揃ってにこやかに会釈を返した。

 私は内心、ちょっとたじろいでしまう。怜耶のお父さんとはあまり面識がないのでともかくとして、怜耶のお母さんには今までそんな『あなたを歓迎するわ』とでも微笑みかけるような優しい眼差しを向けられた試しがなかったから。どういう、心境の変化なんだろう。


 ちら、と食堂を見回す。怜耶の姿がどこにも見当たらない。


「あの、怜耶はどこに?」

「怜耶は準備でいま手が離せなくてな」怜耶のお父さんが平坦な口調で話す。「すまないが、すこしばかし待ってやってくれないか」

「そうなんですか」


 食堂の左奥には厨房への扉がある。準備で忙しいというのなら、もしかしたら怜耶はそっちにいるのかもしれない。料理の趣味に目覚めたなんて、昨晩はそんな風には見えなかったけれど、しかし二年ぶんの開きが私たちの間には横たわっている。すべてを知った気でいるのは、さすがに傲慢と呼ぶほかないか。

 ……その事が、気持ち寂しく感じる。でも、これから埋め合わせていけばいい。


「そこにずっと立っていては疲れないかね。そこの席に掛けるといい」


 怜耶のお父さんが示した先は、右辺の上座側の端から二番目にあたる席だった。おそらく、そこが怜耶の隣になるんだろう。


「はい、ありがとうございます」


 断る理由もないので、私は素直にその申し出に従った。

 それから特に会話もなく、ちょっとだけ気まずい沈黙が続き、待つこと三分半。

 厨房の扉が開くと、怜耶のお付きの人が台を押して、朝食の配膳を始め出した。


「お待たせ」


 と、いつの間にか、怜耶が私の隣に座っていた。

 私はぴくっと肩を震わせ、思わず仰け反るようにして振り向く。


「うそ、全然気づかなかった」

「一度あの人のことを目で追いかけたでしょう」怜耶がお付きの人を目線で示す。「その隙に、ね。音を立てないよう頑張ったんだから」


 いわゆるミスディレクションよ、と得意げに微笑む怜耶。


「ふふ。どう、驚いた?」

「…………」


 大人っぽくなった、という評を少し訂正しようと思う。怜耶は前よりも明るく、悪戯っぽい笑みを浮かべるようになった。

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