第4話 夜の狩場にて

夜の下層区は、昼とは別の貌を見せる。


沈黙と闇が支配する路地には、時折、何かが這うような音だけが響いた。風すら遠慮して通り過ぎるその場に、今、狩人がいた。


双剣を腰に下げた黒衣の男。その気配は夜の中に溶け、まるで闇そのもののようだった。


彼が足を止めたのは、とある廃屋の裏路地。昼間、シエラがパンを手渡していた場所の、ほんの数ブロック先だった。血の匂いが、かすかに鼻を刺す。人間のそれではない。もっと濃く、もっと重たい。


狩人は剣に手をかける。直後、闇の奥から、唸り声が響いた。


――現れた。


姿は少年に似ていた。だが、それは少年ではなかった。


皮膚の表面にはまだ人の形を保とうとする名残があるが、関節は逆に曲がり、皮膚の下では骨格が異形に歪んでいた。耳は引き裂かれたように尖り、背骨から伸びる何かが揺れる。


それは、擬態しきれず崩れかけた未成熟な獣。

人でもなく、完全な化け物でもなく――その中途半端さが、逆に強烈な異物感と不快感を放っていた。


「……まだ、喰い足りないか」


狩人が双剣を引き抜くと、金属の摩擦音が夜気を裂いた。静寂を破り、鋭利な刃が月明かりを反射して鈍く光る。


唸り声が、応えるように高くなった。飢餓に歪んだ獣の顔が、剥き出しの牙を晒して地を蹴る。まるで肉塊が滑るかのように、その巨体が狩人へと迫った。


風を切り裂く獣の爪が、狩人の顔面を狙って振り下ろされる。狩人は滑るような動きで横へ躱し、左手の短剣で獣の振り下ろされた腕を受け流しつつ、右手の長剣を閃かせた。獣の分厚い肩を狙い、渾身の一撃を叩き込んだ。


硬質な手応えと共に、刃は獣の肉を浅くしか切り裂かない。皮膚の下に走る異形の骨が刃を受け止め、金属的な音が夜の闇に響き渡る。常人ならば確実に断ち切られるはずの攻撃が、獣には致命傷にならない。


「ちっ……」


狩人は舌打ちし、即座に攻撃手段を切り替える。獣が体勢を崩した一瞬の隙を見逃さず、右手の長剣で下顎を薙ぎ払う。獣がのけぞったその隙に、返す左手の短剣を下から突き上げる。狙うは獣の脇腹。内臓が集中する急所を正確に捉え、刃を深く突き刺した。


鈍い水音がして、短剣が獣の肉にめり込む。未熟な獣形は苦悶に顔を歪ませ、引き裂かれた喉から獣じみた咆哮が漏れる。だが、その巨体は後退しない。むしろ、傷口からとめどなく溢れる血を滴らせながらも、狩人へと向かう速度を緩めない。


(内臓を損傷しても怯まないとは、理性がない……いや、理性がないなら即座に攻撃してくるだろう)


狩人は、獣の目に理性の光が宿っていないことを感じ取っていた。致命傷を与えても尚、逃げない。深い傷からはとめどなく血が流れている。


彼は直感した。


この獣は、自分を殺しに来たのではない。

何かを――「確かめる」ために、ここに現れたのだ。


そう気づいたときだった。


獣は、戦いの中でふと立ち止まった。傷だらけのその身を引きずりながら、狩人の背後をじっと見つめる。


狩人が振り返る。そこには、誰もいない。


ただ、いつもあの聖女がやって来る道筋――

彼方の闇に包まれた通りを、空ろに見つめているのだった。


狩人は剣を下ろし、獣を見据えた。

もう、獣には反撃する力はないだろう。ガクリと膝を折りそのまま横倒れに地に臥す。


ヒュー……ヒュー……と苦しげな呼吸音。


「……会いたいのか?」


静かな問いに、獣の瞳がかすかに揺れた。


頷いたようにも見えた。それが本心かどうかは分からない。ただ、そう“見えた”のだ。


人として、彼女の側にいたかったのだ。

けれど、それは――叶わぬ願い。


狩人は膝をついた。


「お前は悪くない。ただ――人の理を知らず、善悪を知る機会もなかった……いや、理解も出来ないだろう」


ぐるるる、と苦しげな唸りが返る。

彼の言葉は続く。


「……人の倫理を理解できないことは、人の世界では“悪”なんだ。人を殺して喰らうことは、決して許されない」


声は掠れ、けれど決して揺らがなかった。

それは哀しみの中に灯る、厳しい慈悲の刃。


冷たくなっていく獣の身体が、まるで幼い子供を抱いているかのように感じられた。あの空っぽの目と重なる。この温もりを失わせることが、本当に正しいことなのか、一瞬だけ心が揺らぐ。だが、その弱さが、どれほどの悲劇を生むかを知っていた。

狩人は、獣の身体をそっと抱き、鋭刃を胸元へと添えた。


狙いはぶれず、刃先はゆっくりと――確実に、心臓を貫いた。


「さあ、慈悲を与えよう……安らかに眠れ」


断末魔の叫びは、あまりにも小さかった。

闇に消えていく獣の最後の光は、

痛みと、切なさと、そして――微かな救いを湛えていた。

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