PERI〜捕食者としての妖精レポート〜

あまるん

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 僕は現代ロマ(いわゆるジプシー)の音楽を研究している者の端くれとしてある時期からイランの『ロマ(ろま)聚落(しゅうらく)』に通っている。

 イランのロマはルーマニアなどバルカン半島から移住したグループとは別に国中に広まった物語や叙事詩(サーガ)などを歌う職業的な音楽家に分かれているようだ。後者については二〇〇八年現在一般的にはまだ解明されてるとは言いがたい。

 イラン東部によくみられる社会的下層にある語り手や叙事詩(サーガ)を街中で奏でる職業的音楽プレーヤーもロマ(いわゆるジプシー)と理解されてるのがとても面白い。

 少し話は変わるのだが、僕がロマの聚落に通うきっかけとなった出来事を伝えておきたい。

 今から六年前の二〇〇二年、僕はフランスのマルセイユの港町のある路地にいた。ある音楽イベントに参加するためだったのだがアラブ人街の空気を味わいたいがためにそこに宿を取ったのだった。

 夜に出歩くと街灯近くに女の人が立っている。格好を見るにおそらくコールガールだと思われるのだが彼女たちは僕が通りがかると中国人と間違えて「ヘイ、シノワ」と声をかけてくる。

 あの街角の異国風喫茶店の近くでも、僕に声をかけるものがいた。彼女の背は僕の肩ほどで頭を包む布やその高い鼻とオリーブがかった肌を見て僕はロマの女性とすぐにわかる。

「中国人ではなく日本人です」

 そう日本語訛りのトルコ語で返したところ、彼女もトルコ語を返す。

「私トルコからではなくイランから来たんです」

 僕は当時『チンゲネ』と呼ばれるトルコのロマを調べる予定を立てようとしていた。

しかしイランのロマのこともいずれ調べる予定だったので、その言葉にまじまじと彼女の全身を見つめる。目は淡い緑で少しだけ見える髪は細かくカールしたブルネットだ。

 そして木が変色した古めかしいウードを持っている。

 それで察しがついた。娼婦と間違えてしまったが彼女はおそらく音楽家だ。イランは一九七九年のイスラム革命によって世界中に音楽家の亡命者を出している。

 今ではイラン国内で、女性歌手が公衆の面前で歌うことは特に厳しく禁じられている。おそらく彼女は革命時にイラン国外に出た音楽家の系譜のうちにあるのだろう。

 ロマの歌を研究していることを彼女に伝えると彼女はまじまじと僕を見つめた。気にせず、ぜひ故郷の歌を歌って欲しいし、もし良ければ歌の録音をしてもいいかを尋ねた。

「録音?」

 彼女の言葉にバッグからカセットプレーヤーを取り出してみせた。

「歌だけじゃなく故郷の話も聞かせて欲しい」

 僕らの話が盛り上がるとカフェの奥からアラブ系とみえる主人が現れる。僕は察して自分用にミントティーを注文した。店主に彼女にもなにか、と頼むと二人は目配せしあって柘榴のジュースが出てきた。

 彼女が椅子に座りウードを構える。僕の指が録音のボタンをカチリ、彼女はウードを鳥の羽根の軸でかき鳴らす。

 ウードの弦は四本だけの古いタイプだった。

 彼女は裾の長いスカートを広げてウードを抱え込んでいる。

 赤く塗られた唇が息を吸い込んだ。

 猥雑な港町特有の煙たい喧騒の中にウードの生き生きとした音が響く。

 西洋音楽の調子で聞こうとするとどこかで少しだけ音が下がる。ウードは火の楽器と言われる。かき鳴らしても不思議と物寂しい音ではない。

 彼女はとても古い言葉で歌っていた。拙い語学力ではほとんど意味がわからない。おそらく拝火教(ゾロアスター)の叙事詩(サーガ)であることがかろうじてわかるくらいだ。乳牛や、悪神(アンラマンユ)、妖精(パリー)などの単語は聞き取れる。

 太鼓の音に似たリズムは楽器の表面を叩いて出しているようだ。

 彼女は巧みに弾くので指先は見えない。

 演奏が心地よい。火の揺らめきに似た軽さがある。

 歌声は高い。特に頭に響かせる高い声、ナイチンゲールの鳴き声に例えられる歌声(ファルセット)は空まで昇るように響く。

 当時からファイルーズというレバノンの女性歌手の大ファンだったので思わず聴き入ってしまった。

 闇の中に聞こえる歌声はさらにその影の奥に招こうとするようだ。

 目が慣れると徐々に月の明るさが際立ってきた。

 雲が晴れ街角のカフェの外の椅子に座る僕たちを照らす。

 ウードはそれを弾いているものには本来の音が聞こえない作りになっている。彼女がこの音を聞けないのはもったいない、そう思いながらも演奏を堪能した。

 演奏が終わると彼女はウードを置いて汗を拭った。

 その光景が生々しく感じられる。

 先ほどの妖精(パリー)について尋ねると彼女は悪魔、魔女と答えた。

「もっと色々聞きたいなら『村』に行けばいい。日本人なら誰もが歓迎してくれる」

 彼女はそう言って僕に村のある場所を教えてくれた。

「行くなら私と『結婚』しないと入れてくれない」

聞き違えたのかと思って思わず結婚?と繰り返した。

「そう、夫なら誰も貴方を止めない」

 どうも彼女たちの身内だけが村に入れるというしきたりのようだ。

「結婚しても別れる時は別れると言うだけ」

多分、彼女が言いたいのは、一夜婚のことだろう。

 本来は男女が同じ部屋にいることも教義的に許されない。だから、中東で娼婦と寝る時は、便宜的に結婚したことにする。そして婚資としてわずかな金を払い、翌朝には離婚するという風習だ。

 どうも彼女はあの宗教と思われた。

 ちょうど独り身だったし、彼女のような人種はすぐに離婚するということも知っている。

 まだ若かったので軽い気持ちで頷いた。

 僕らはカフェの店員が見守る中簡単な誓いをした。

 終わると彼女は手を差し出した。財布を探ろうとすると、彼女は人差し指を左右に振る。

「故郷の話するよ」

 そう言って手招きするのだった。少しでも危ないと感じたら遠慮するが、その時は結婚もした事だし、彼女自体に興味をそそられてしまい立ち上がった。

 話し続けていたため、裏路地を通り抜ける間の記憶は曖昧だ。彼女が通ると遠くにいる娼婦たちが憧れの眼差しで見つめる。背は低く顔も小さいがとびきり豊満な彼女はまるで夜の女王のようだった。

 場末の裏路地の安宿に彼女の部屋はある。お世辞にも片付いている部屋とは言えない。天井は低く窓は小さく二つある寝台のうち一つは、人形や中国で見る謎のお土産や小型家電が積まれている。

 彼女は鞄からカセットテーププレーヤーを取り出す僕を興味深そうに眺める。

「曲はたくさんあるの?」

僕は鞄を開き、彼女にカセットテープのうち日本でダビングした歌謡曲を見せた。その時の眼差しはまだ忘れられない。地面が割れたように彼女の貪欲な中身が蒸気を吐いて覗いたように見えた。

「婚資がなくては」

 彼女は僕に言いながらプレーヤーを指差す。戸惑いつつも予備のプレーヤーがあるのでわかったと頷いた

 婚資を渡すとどうなるのか多少期待してしまうのは男の性質(さが)だ。僕としてはこの旅での初めて冒険と言えたが、躊躇う事なく剥き出しになった彼女の淡い褐色の胸元には息を飲んだ。そこには肌よりも白いオリーブの実を思わせるものが息づいていた。

――麝香の香と鉄臭さが混じり合う肌に酔い痴れる、この上ない一時を味わった気がする。街灯から光が射し込み、壁に影が映っていた。その影は形も変わっていて無数の手を持ち薄暗い胎内に僕を飲み込もうとした。香の中に幻覚剤の成分が含まれていたのかもしれない。震えが止まらない僕に彼女は甘い唇を押し当てる。

 何もない寝台の方でことを終えると彼女は寝物語に自分の故郷の話をしてくれた。


風の中にも音楽が溢れてる、そこで自給自足の生活。定期的に外の村から鳥や牛を連れてくるものがいる。大抵はちゃんと手に入れたものだが(トルコ語なので意味が曖昧だが、契約や結婚というような言葉を使っていた)たまに掟を守らないものが許されない牛を攫ってきたり盗んできたりする。

 それをしてしまうと村には帰れなくなる。


 ロマたちは居着いた先で地元の宗教に染まるので『許されない牛』というのは、おそらく「聖別されないもの」という意味だろうか。彼らは村以外に所属できる場所を持たない民だ。隔絶された環境での孤独は想像を絶する。

 僕は彼女に受け入れてもらおうとある話をした。


 この前の旅でシリアに泊まった翌日の早朝、日が登る直前に石造りの街のあらゆるところにあるスピーカーが壁を震わしながら人々を呼び集める”歌”に似たものを流す。

 モスクで祈るものも居れば寝室の床に絨毯を敷いて祈るものもいる。

 日本人の僕は早朝に叩き起こされ尖塔(ミナレット)にかかる朝日を見てしまった。そのあと僕は美しいモスクで祈りを捧げてきたと。

 その時のシリアの祈りを呼びかける声(アザーン)の印象が強烈でアラブ音楽を聴くようになっている。

 

 彼女の顔色が変わったのはその話の途中からだった。

「日本人もモスクで祈るの?」

僕はもちろん、と答えた。

慌てた様子で彼女は服を整えた。僕に手を差し出す。僕は慌てて中身のテープを巻いて録音テープを取り出してからプレーヤーを渡す。日本から持ってきた歌謡曲のテープもセットして。

彼女は僕に村長の連絡先を教えてくれ、そのまま僕をろくに衣服も整えてない状態で部屋から追い出す。

 結局故郷の地図と歌の録音のテープだけが一夜の思い出となった。

 後で再会する約束をし損ねたことに気づいた。彼女の故郷に行ってからまた連絡をすればいい、軽い気持ちでその時は日本に帰ったのだ。

 日本で改めてテープを聞いてみると歌の部分で音が割れたり、獣に似たくぐもった息の音が入ってしまっていた。おそらく飛行機に乗る時のX線のせいだろう。おかげで原稿に起こすのはかなり苦労した。


 さて僕がこの記録を残すのはこれからまた彼女の故郷のロマの村に戻るからだ。


 僕が研究者を連れて彼女の村に行くようになったのは結局三年後になった。他のロマの研究もしなくてはならなかったし、最後の彼女の様子は気に掛かった。

 それに村に行くのに、ろくな通訳も見つからず(村の出身者が見つからなかったのだ)、最後は近隣の住人に頼まざるを得なかった。相場から考えると相当の額を渡したのに、結局門からかなり離れた場所に下された。やはり異民族に対する偏見があるのだろう。

舗装されていない道を荷物を持って歩き、やっと辿り着いた村の入り口は砂岩の斜面のせいで暗く、禍々しい山羊の頭が飾り付けてあった。門も葉が厚い乾燥地帯独特の奇妙な形の木(糸杉か?)で作られており、不気味さを演出している。


 追い返されるかと思ったが、彼女の名前を出した後は、村長を始め村人は寛容だった。外国人が門の外に集っていたのを快く受け入れてくれ、そして、僕が連れて行った研究者仲間も歓迎してくれている。

 村の光景には、不思議な活気がある。アスファルトもない土の道に簡易なトタン造りの家。家は定期的に色々な色に塗り替えて楽しんでいるようだ。電気は通っているが工業製品は村人が外で買ってきた古い家電の類しかない。服装もどこか古めかしく、世界大戦のような昔の話がまだ昨日のことのように伝えられている。

 信仰は思った以上に篤い。日干しのレンガでできていると思われる礼拝堂も大きく、祭壇には白い服装の指導者と見られる人々がいた。中では香が焚かれている。あくまで外から分かる内容だ。そこは村で生まれたものでないと入ることはできないらしい。


一応他の研究者には、村の祭祀の件は伝えてモスクで祈ってから行くようにと頼んであった。

 お土産を必ず持って礼儀を正しく過ごすうちに年々僕の村の中での評判は上がっていった。今では村人は家族同然の付き合いをしてくれるようになっている。僕より若い研究者には、村に住み着いたものもいるほどだ。

 村の娘たちが実にまめまめしく世話を焼く。村から出る気を起こさせまいとするのではないかと疑うほどだ。

その辺りの話は書籍で刊行する予定なので楽しみにしてほしい。原稿はもう編集者に渡してある。

 彼らは貧しくても明るく、とても朗らかだ。朗らかすぎると感じる時もある。何かあるとすぐにウードやアコーディオンを弾いて踊り、僕らはその中に取り込まれてしまう。一種のトランス状態になるとどのくらい時間をかけて踊るのか測ろうとしてもなかなか難しい。前にタイマーで測った時は一昼夜、と出たがその割には腹も空かず、おそらく誤りだろう。

 鳥や牛たちを大事に飼い、食べてしまうとまるで人につけるような名前を呼んで泣くものもいるほどだ。たまに血が濃すぎるせいか奇妙な見かけのものもいるがそれは避けられないことなのだろう。精神も錯乱しているのか、たまに僕らを見て『黒い山羊だ』と叫びながら追い出そうとする。そのため他の村人に頼んで体良く追い払ってもらっている。この辺りの閉鎖性も書籍にはうまく残した。


 僕が今回村に戻るのはどうも研究者の一人が村のすぐ外で行方不明になったという連絡が来たからだ。

 そして、丁度彼女も帰ってくる。

 会うとしたらあの時以来だ。僕もそろそろ日本で結婚がしたい……。彼女と別れるのなら絶好の機会といえる。しかし心の中には彼女の豊満な肉体への憧れが色濃く根付いている。ヨーロッパの地母神の像を思い出すあの柔らかな肉と不釣り合いなほど小さな顔。

 そうだ、一夜婚とはいえ、別れるためにはそれなりの手切れ金が必要だ。

 僕達はその取り決めをしないまま結婚してしまったから、彼らが好む金製品を持って行こうと思う。

……喜んでくれるといいが

 彼女はまだあのカセットプレーヤーを持っているだろうか。テープに入れていた日本の曲が歌えるようになっていたら聴いてみたい。

――あのファルセットが忘れられない。


***


 僕はここまで記入を終えると原稿をファイルにまとめてメールに添付した。

 メールには編集者にあててジョークも加えた。「早速だが、僕が彼らの村から帰るのが遅れたら迎えに来て欲しい。こちらの車の調子は全てが怪しい。信じられるのはTOYOTAだけだからTOYOTAと車に書くものもいるほどだ。それと、来る時は必ずモスクで祈ってから来るように」

 それでは行ってこようと思う。

 貴方に神の平安があるように。



《このファイルが発見されたのは彼の研究に同行した数人の学者が行方不明になった後だった。帰還した研究助手と記者は重い口を開こうとしない。地元警察が現地を確認しに行ったが、そのような聚落は存在しなかったという。

上層部は査問会を取り行ったが彼らの口から得られたのは意味をなさない戯言だった。当局は幻覚作用か、あるいは現地の人身売買のルートに乗ってしまったのだろうという見解である。

だが、それだけだろうか?私は残されたテープを聞いてから彼女の歌が頭に鳴り響くように感じる。そして夜毎に獣のような何かが家の周りをうろついている。

これは妄想なのだろうか。不安に私自身が形を与えてしまっているに過ぎないのだろうか》


(了)

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