R75 恋慕 ~認知症の妻と、寄り添い続ける夫の愛~

竹笛パンダ

第一話:幸子の時間


 目が覚めた。

 毎日よく眠れて、気分がいい……はずだった。

 不気味に揺れるカーテンの裏側に、見知らぬ顔があった。

 また来たのね……この泥棒猫。


「ねぇ、ちょっと。」


 ……返事はなかった。

 こっちを見て、薄ら笑いを浮かべていた。


「だから家にまで女を連れ込まないでと言っているでしょう。

 まったく今度はどこの女よ!」


「お前さっきから何をいっている。

 どこにもそんな女いないじゃないか。」


「ほら、そこに隠れているじゃない。

 そこのカーテンの裏、私にはちゃんとわかるのよ。」


 そういうと旦那はカーテンをめくって、


「ほらな、誰もいないだろ。

 俺がそんなことするわけないじゃないか。」


「変ねぇ、さっきまでいたような気がしたのだけど。」


 とにかく旦那は女癖が悪い。

 カルチャークラブのテニスのコーチっていうのはとにかくモテるみたいだ。

 そういう私も独身だった時に、その時には恋人がいた年下の旦那を奪ってやった。


「それじゃ、行ってくる。」と言ってさっさと出かけてしまった。

 どこにいくのか言ったような気がするけど忘れた。

 もうそんなのどうでもいい。


「あーもう、ヤになっちゃう。

 なんか甘いものでも食べたいな。」


 冷蔵庫を開けると手前にコンビニのモンブランのプリンが入っている。


「今日のおやつはモンブランのプリン。」


 そう思うと、ちょっとだけ気が晴れた。


「さぁ、お買い物しなきゃ。今日は何を買おうかな。」


 少しのことでも買い物はうれしい。


「お買い物しなきゃね。

 買い物バッグとお財布……どこかしら?

 あぁ、財布が見当たらない、どこに行ったんだろう。

 そうだわ、あの女よ。どこまでも私たちを苦しめる。」


 そう言って寝室を振り返ってみると、やはりクローゼットの前に女が立っていた。


 白いワンピースの女。

 かつて私が仁を奪ってやった女。


「ちょっとあんた、いつまでそこにいるのよ。

 早く出て行ってちょうだい!」


 負けるものですか。

 仁は私の夫になったのよ。

 あなたにはもう関係ないでしょ。


「早く出してちょうだい。

 私のお財布盗ったでしょ。」


 そう言って女に詰め寄った。

 しかし、そこにはもう、女はいなかった。


「いつもどこかへ隠れちゃうんだよ。

 そうして夜になったら仁と寝るのね。

 もう知らないから。」


 私は玄関を出た。

 手には買い物バッグ、お財布、携帯が入っていた。


 少し坂道を下って歩くと熱海の駅前に到着した。

 今は冬休みの行楽シーズンのため、毎日たくさんの家族連れが訪れる、言わずと知れた観光地。

 最近はプリンなども有名になっていた。

 

 駅の構内の丸石さんでは、私はいつものパンと牛乳、そして卵を買う。

 店員さんは私のことを知っていて、


「奥様、今日もいいお天気ですね。

 お買い物はいかがいたしましょう?」

 というので、

「いつもの。」と言うの。


 だいたいそれで分かる。


「プリンはどうしますか?」

 と聞くので、

「ちょうだい、二つね。」

 というと一緒に入れてくれる。


 会計はいつもお財布を渡すと、そこから必要なお金をレジに入れ、買い物袋に入れてくれる。


「いつもありがとうございます。

 またお越しください。」


「ええ……ではごきげんよう。」


 やさしくしてくれるから、この店は好きよ。


 熱海の商店街を見て歩いた。

 下り坂の途中にはお土産物やおまんじゅう、干物なんかを扱っているお店に混ざって衣料品や雑貨を売っているお店がある。


 饅頭屋の店主が声をかけてきた。


「よっ、奥さん。今日もええ天気だねぇ。」


「あら、こんにちは。

 あらまぁ、おいしそう……。」


「今日は特別、よかったらこれ、2個ほどサービスしとくよ。

 さっきちょうど蒸し上がったやつだから。」


「まぁ!ありがとう、いただくわね。」

 そう言って出来立ての温泉饅頭をいただいた。

 

 ん~、おいしいわね……。

 ……あら、やわらかいわ。

 これ……こしあんね。

 私、こしあん好きなの。

 やっぱり熱海のまんじゅうは格別ね。

 ……うふふ、2個も……いいのかしら。

 お饅頭を口いっぱいにほおばって……とっても幸せね。


「ごちそう様、おいしかったわ。」


「それじゃ、旦那によろしくな。」


 旦那って、どこの旦那のことかしら?

 そんなことを思いながら、商店街を歩いて行った。


「ふう……この坂、ちょっときつくなったわね……。

 最近、膝が痛くてねぇ。」


 商店街は駅から下り坂になっていた。


 あら?

 私、今なにか食べたかしら?

 ……包み紙がないってことは……食べてないのね。

 まぁいいか。


 今日はなんだか小腹がすくのよね。

 ほら、ちゃんと運動したからよ。

 坂道歩くのって大事よねぇ。

 そう言って坂を下っていった。


「よいしょっと……膝が、ちょっと重たいのは、ね、歳のせいじゃないのよ。

 坂のせいよ……そういうことにしておきましょう。」


 商店街のあちこちには、ベンチが置いてあった。


「ちょっと、ふぅ、休憩。」


 そういって、商店街のベンチに腰掛けた。


 そうしたら向かいの蕎麦屋の店員が、


「奥さん、お買い物ですか?」

 って聞くのよ。

 なれなれしい。


「そうですけど、あなたは?」

 と聞いてやった。


「毎度ごひいきにしていただいています。

 そば信の店主をやっています。」


「あ、そば信さんね。

 店主さん、初めまして。

 いつもおそばをいただいています。」

 とあいさつをした。


 そばのおいしいお店は確かにそば信さんだけど、店主とは初対面だわ。


「小腹が空いたから、いただこうかしら。」


「ヘイ、毎度。」


 そういってカウンターに案内してくれた。


 私、注文していないのに、「いつもの」が出てくる。

 まぁいいわ。暖かいおそばにエビ天を一つ。

 海苔のてんぷらと、ネギ。

 そこに七味唐辛子を入れるの。


「これくらい入れないとね。」


 そばのお椀の3分の1ぐらいが赤く染まった。

 ピリッと辛いけど、いつもおいしくいただいている。


「お代はいくら?」

 と聞くと、

「旦那様につけておきますから。」


「……あら。うちの旦那、そんなに通っているのね。

 ちゃんと請求してくださいね、ごちそうさま。」


 この商店街は、帰りは上りで嫌なので、出たところからはタクシーで帰る。


 タクシーの会社の人も、私を見つけると、

「あ、奥さん、お帰りですか?」

 と聞いてくるから、

「ええ……そうね、帰らないと。」

 というと、ドアを開けてくれた。


 マンションまではそんなに距離がないが、上り坂を登って帰るのは少ししんどい。


「貴方、親切ね。おいくら?」


「770円です。」

 というから、千円札を出すと、

「毎度あり。」と言って、レシートとお釣りをくれる。


 私はそれをお財布にしまい、

「ありがとう」というと、


「明日もまたよろしくお願いします。」

 という。


 変ねぇ、もう買い物をしたので十分、明日は乗る予定はないわ。


 マンションの管理人室の横を通る。


「おかえりなさい、奥様。」


 そういって鍵を開けて、中に入れてくれるの。

 

 部屋に帰ると、旦那が帰ってきていた。


「おかえり、買い物に行ってくれたんだね。

 これからお昼だけど、もう何か食べたか?」

 と聞くから、


「いいえ、特に何も……。」

 といった。


 旦那は私が買ってきたものを冷蔵庫に入れ、お昼ご飯を作ってくれる。


 私はおなかいっぱい旦那の手料理を楽しむ。

 しばらくして眠くなり、


「少し休むわ。」

 と言ってベッドに入る。


 程よく休んだ後に台所に行くと、旦那がお茶を入れてくれる。


「今日はお前の好きなモンブランのプリンがあるぞ。」


 そう、こういうところはマメなのよ、この男は。

 まぁいいわ。


「ふふっ、わざわざ用意してくれたのね、ありがとう。」


 こうして私たちはお茶を飲みながらゆっくりと過ごす。

 毎日一緒だから、特にこれといった会話はないの。

 でもね、隣にいるだけでいいのよ。


 夕方になると、面白いテレビがあるわね。

 なんといったかしら、「ピタゴラスイッチ」あれは面白いわね。

 見るだけで面白いってわかるところが面白いのよ。


 ドラマなんかは見ないのよ。

 話が分からないから、すぐに飽きちゃう。

 今どきの若い人たちがテレビで一生懸命何か言ってるけど、よくわからないわ。


「ピタゴラスイッチ」が終わると、旦那が夕飯の支度ができたという。


 夕食が食卓に並ぶ、旦那がテーブルに2人分のごはんとおかずを並べる。

 今日はアジの南蛮漬けや大学いも。

 鶏のから揚げのお惣菜とご飯、わかめスープを用意してくれた。

 どれもおいしそうね。


「わぁ、今日は唐揚げなのね。ふふっ、大好きなの。」


「あ、それ……俺の……。」


 今何か言ったかしら。

 まあいいわ。


 夕飯の後は旦那がお風呂に入るようにと言うけど、今日は疲れて、そんな気分じゃないわ。


「あとでね。」

 というと、

「お前はあとでといって、いつ入るんだよ。」

 とか言って怒るから、仕方なく入っている。


 それでもやっぱり、お風呂は気持ちがいいわね。


 そうしてゆったりと入っているところを旦那が声をかける。


「そろそろどうだい?」

 なんて……。


 お互い40も過ぎればもう一緒に入るような年でもないでしょ。

 もう、おバカさんなんだから。

 

 でも、あまりにも「出ろ」とうるさいから、お風呂から出るの。

 私が体をふいているときに、着替えを用意してくれる。


 あら、気が利くのね。

 私はまだ裸なのよ……ふふっ、あなたならいいわ。

 とにかく寒くならないように下着をつけて、パジャマを着るの。


 化粧台の椅子に座ると、旦那がドライヤーをかけてくれる。

 その時にいろんなお話をするのよ。

 そろそろ桜の季節になるのかな。

 熱海の桜は年が明けるとすぐに見ごろになるから、駅の周りを散歩するのもいいわね。


 あまりに気持ちがいいので、私はすぐに眠くなるの。

 夜に飲むおなかの薬を飲んでから、寝るの。


 あれ、玄関のカギ閉めたかしら。

 気になって見に行くと、大丈夫だった。


 あれ、雨が降ってきたみたい、何か音がする。


「ねぇ、ちょっと。」

 と言って旦那を起こす。


「何か雨が降ってきたみたいよ。

 洗濯ものは大丈夫?」


「あ?雨なんて降ってないよ。

 いいからさっさと寝ろよ。」


 トイレの水の音がする。

 流れっぱなしになっていないか確認に行く。


 電気をつけると旦那が眠そうな声で、

「どうしたんだ、こんな時間に。」


「トイレの水がね、流れてるの。

 聞こえるでしょ?」


「あ? わかったからもう寝ろよ。」


「あら、でも……。」


 これ以上言うといつも不機嫌に私を叱るから、黙っている。

 布団に入ると急に眠くなったから、もう寝ることにした。

 

 朝、カーテン越しに部屋に光が入る。

 今日も気分よく目が覚めた……はずだった。

 不気味に揺れるカーテンの裏側に、見知らぬ顔があった。

 また来たのね……この泥棒猫。


「……あなた……また、いるのね。」


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