第26話 春の夜の 闇はあやなし④ 4月24日

「ねえ、後輩」


 口火を切ったのは先輩の方だった。

「……はい」

「やっぱり、悪いよ」

「……はい?」


 歯切れが悪くて、意図が分からない。

 それでも向き直って気付く。先輩の参考書は一向にページが進んでいなかった。

 髪を掛けた耳はほんのりと紅い。


「これ、こんなに貰うの。釣り合いがとれてないから」


 鞄からさっき渡したシートを覗かせている。視線は合わせないまま、声は所在なさげに震えていた。


「お返しがしたいから、このあと家にこない?」


 お返しのお返しなんて、破綻した建前に意味はない。

 不器用に勇気を出して誘ってくれたことに意味がある。

 この時間の続きを求めていたのが私だけじゃなかったことに意味がある。

 とくんと心が跳ねる。

 首筋のむず痒さと指先にまで通う熱と。


「後輩さえよければ、だけど」

「はい……!」

 鉛色の雨雲に晴れ間が差したような気分になる。

 勢いよく呼応した私の声もまた、震えていたかもしれない。


 帰り支度に取り掛かる私は、恥ずかしながら浮かれていた。

 きっと先輩も私と同じことを、二人で過ごす時間の終わりを惜しんでくれているのだと。


 今となっては信じて疑わない。

 心が通っているような不思議な感覚。

 意識はもう部室を出ていて、先輩の家でのひと時を思い描く。

 先輩にまた誘って貰えたけど、これで終わりにしたくはない。もう一歩が必要だ。

 これからも放課後を一緒に過ごしてみたい。それは家に着いてから私の方から切り出そう。


 逸る自分に苦笑する。やっぱりこの人は私にとっての特別なのかもしれないと、期待が膨らむ。


 しかし先日のように勇み足になってはいけない。

 礼節を欠いてはいけないと。慎重に接しなければと。

 頭では分かっていた。分かっているつもりだった。


「急にお邪魔しちゃって大丈夫ですか?」

「大丈夫だよ。今家に誰もいないし」


 だけどやっぱり、軽率になっていたのだと思う。


「そういえば先輩、一人暮らしですもんね」


 考えなしの返事に、同じく帰り支度をしていた先輩の動きが止まる。


「――なにそれ」

 私も手を止めた。

 嫌な予感が脳内で警告音を発している。数秒前に帰りたいと、土台無理な切望を抱く。


「そんなこと、誰に聞いたの」


 表面上だけ冷静さを取り戻した気になって、失念していた。

 この先輩との距離を測ることの難しさを。迂闊に踏み込めば大きく響くことを。

 無数に埋められた地雷の一つを踏み抜いてしまったことは、身震いするほど冷たい声色が物語っていた。私を射抜く視線は鋭く、敵意すら宿る。

 とうに過ぎ去った筈の冬が部室に訪れる。全てが凍り付いていく。


『先輩は他県から越してきて、一人暮らしをしている』


 十日前に記憶した情報は夏帆から伝えられたもので、先輩と共有していないことを失念していた。

 そして先輩は不用意な詮索を嫌う性分で。

 完全に悪い方に噛み合ってしまっていた。


「詮索しないで……って、言ったつもりだったけど」

「ちが……」


 私が詮索した訳じゃない。しかもそれを知ったのだって、先輩から釘を刺されるよりも前のことだ。

 それでも友達が勝手に調べてきたことだとは言いたくなかった。

 夏帆も、雪乃も福島さんも、私を心配して先輩のことを聞いて調べてくれた。その好意を言い訳に使うのは間違っている。


「……ごめんなさい」

 誤解を解く術は幾らでもあるのかもしれない。解かなければいけない。

 でも、先輩が嫌がりそうなことを迂闊に口にしたのは私の責任だ。


「ごめんなさい、先輩」

 先輩は無表情で、語気を荒げる訳でもない。

 それでも確かに怒りを発露していて、私は気圧されている。

 今までにも機嫌を損ねてしまうことは幾度かあったけど、比にならないものを強く感じる。私への失望と怒りを。


「……もういいや。学んだはずなのに、私が馬鹿だった」


 長く、乾いた溜息。

 学んだ?

 発言の意味は良く分からないけど、その様相に既視感を覚えたのは恐らく間違いじゃない。

 仮入部の日。先輩に詰め寄られて何も言い返せなかった私への態度と酷似していた。

 目の前の人間への愛想が尽きた。そんな溜息。


「あ……」


 手を取られて、先輩が鞄から取り出したものを掴まされる。

 私がさっきあげたばかりの制汗シート。


「これ、返すよ。契約通り今日で練習は終わり。今までありがとう」

 呆気にとられる私へ、息つく間もなく先輩が告げる。


「ここから出て行ってくれないかな」

「っ……!」


 怒りなのか寂しさなのか。判別する余裕は微塵もない。

 ぐちゃぐちゃとしたものに頭を支配される。

 熱が集って、視界が揺らぐ。吐き気すら催した。

「失礼、しました」

 逃げるように素早く扉へ向かう。

 鞄と、新調したばかりのビニール傘を引っ提げて。

 ピシャリと乾いた音を立てて扉を閉める。

 二人で過ごしてきた部屋は、再び先輩の孤城と化す。


 入学して三週間目。

 掴みかけていた特別は、突如として豪雨に浚われていく。

 部室から出て、階段を降りた先で身体を打ち付ける雨の存在に気付く。ビニール傘の留め具を外し、頭上に広がる透明が今更私を守る。既に身体中を水分が生ぬるく伝っていた。


 最寄りのバス停で足を止めることなく歩んでいく。止まってしまうと、胸の奥底を掻き回すような不快感に耐えられない気がした。

 髪から零れて目に入る雨粒の所為で視界が不良になる。濡れた手で目を擦り悪化を辿る。無意味な行動。身体と脳とが乖離したような錯覚。

 電柱にぶつかりそうになるところを寸でのところで躱す。雑居ビルが立ち並ぶ狭い歩道の先々には身を縮め、雨に不平を漏らしつつも友人と会話を楽しみながら歩む学生たちの姿。


 その中を一人往く。

 迂闊な発言が無ければ、私も今頃先輩と肩を並べていたのだろうか。

 どちらかといえば受動的に、そして無難に人間関係を済ませてきた。特に中学に上がってからはそのスタンスが定着していた筈だ。揉め事を始めとする他者との摩擦は面倒で、適当に避けてきた。ほどほどに人当たり良く、誰とでも浅く仲良くなることには自信があった。


 そんな私が特別を感じて、能動的に手を伸ばした相手から一方的に拒絶される。

 たかが一人、たった一人に嫌われるだけ。それがこんなにも鋭く突き刺さるものだとは思っていなかった。

 磨かれていない感性では対処できない揺らぎに惑う。こんなにも私は弱い人間だったのか。

 肩を落として、降りしきる雨の中を歩く濡れネズミは、さそ無様に映るだろう。


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