第8話 ハイパーサイメシア



朝、白湯を一口飲んでから、

澪は一粒の薬を舌の上に置いた。


ラムネのように丸く、味はない。

けれどこの粒は、澪の脳の中の記憶の過活動を抑える“錠前”のようなものだった。


> 「これを飲むことで、少しだけ“ノイズ”を減らすことができます。

ただ、記憶が薄れるわけではありません。

“感情の再生頻度”が鈍るだけです」




医師の言葉が蘇る。

澪は、それも正確に記憶していた。



---


4年前。


澪がその診断名を初めて聞いた日のこと。


病院の壁は灰色で、椅子のクッションの縫い目が少しほつれていた。


「過剰記憶症候群──通称ハイパーサイメシアと呼ばれます」


医師の口ぶりは事務的だった。

感情のこもらない声が、逆に胸に響いた。


> 「生まれつき、記憶を“映像のまま保存する”傾向が強く、

時系列、音声、感情の波まで再現される。

それ自体が異常というわけではありませんが、

情報処理が追いつかないため、精神的疲労が極端に高まります」




澪は、何も言えなかった。


「あなたは、おそらく“忘れられない”んです。

嫌な言葉も、悲しい目も、些細な空気の変化も──

そのまま、“現在”として思い出してしまう」



---


帰り道、空は晴れていた。

でも澪の目には、過去と現在が同じ明るさで並んでいた。


> 「忘れることが、許されない身体なんだ……」




それが、澪がその日、初めて口にした言葉だった。

誰に向けてでもなく、自分の胸に落とすように。



---


そして現在。


図書館の朝の打ち合わせ。

昨日の注意事項が、また“曖昧に記憶された同僚”によってすれ違っていた。


「え?昨日、中井さんが“今日は10分前に全員集合”って言ってたと思うけど?」


「いや、それは“明日から”って言ってたよ。僕メモ取ってたから間違いない」


> 「“明日から”です。私も確認しています」




澪が言うと、

周囲が少しだけざわついた。

“また芹沢さんが言ってる”という空気。


澪は、それ以上は言わなかった。


> ——記憶を言えば敵視される。

——黙っていれば無責任だと言われる。




どちらを選んでも、同じだった。



---


帰宅後、洗面所の鏡を見つめながら、

澪は口の中でつぶやいた。


「……忘れられたらいいのに」


その言葉を言う自分を、

どこか冷静に見下ろしていた。

“忘れたい”と願ってしまったことすら、覚えてしまうことを、知っていた。



---


夜、澪はまた白湯を飲んだ。

今日の出来事が、断片となって頭の中で並び始める前に。


薬は、記憶を消さない。

でも、“再生される痛み”を一時的に遅らせてくれる。


今夜は、それで十分だった。



---


> ——私は、全部覚えて生きていく。


それがどうしようもないことなら、


せめて、声にならない人たちのことも、


忘れないまま、見ていく。







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