第6話 多数
「芹沢さん、昨日の閉館作業……この返却処理、されてませんでしたよ?」
火曜の朝。
上司の中井が淡々とした声で言った。
「返却処理、ですか?」
「はい。〇〇さんの予約本。昨日19時46分に返却BOXに入ったとログが残ってます。でも処理は今日の朝になってて」
「……19時46分なら、私はロビー側の施錠に回っていました。カウンターには江藤さんが」
澪は即答した。
その時間、館内時計の遅延を補正していたことも覚えている。
「施錠記録も、私が書きました。19時45分完了です。なので、そのあと私が返却処理をしてないのは……確かです」
中井はうなずいた。
「江藤くんは“芹沢さんがやったと思ってた”って言ってたよ」
澪は、息を小さく吸った。
> ——“思ってた”
その言葉が、澪の記憶を急速に濁らせる。
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昼休憩、休憩室で江藤に話しかけた。
「昨日の19時46分の返却、処理は……?」
「あれ……芹沢さんがあとからやったと思ってたんですけど、違いました?」
「私はロビーの鍵確認で、カウンターにいなかったよ」
「あ、そうでしたっけ……?あの時、ちょっと立て込んでて。返却処理した気もするけど、してなかったかな……」
江藤は笑ってごまかした。
澪は思った。
> ——“してないこと”に関して、人は平気で“あいまいな記憶”を話せる。
——“した気がする”で、誰かの責任にできてしまう。
だが、問題はそこではなかった。
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翌日、別の同僚がこう言った。
「中井さんがさ……“芹沢さんって、すごい記憶力あるのに、なんでこんなミスするんだろ”って言ってたよ」
澪はその瞬間、目の奥にノイズが走った。
→ 「記憶力がある=完璧にやって当然」
→ 「だから、間違えたら逆におかしい」
→ 「細かすぎる主張=ごまかしてるっぽい」
> 何もしてないのに、
“知っていること”が、
“嘘っぽさ”に変換されていく。
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夜、自室。
澪は大好きなAmariをBGMに真っ暗な天井を見つめながら、昨日の19時46分を思い出していた。
→ ロビーの防犯カメラが、自分の通過を映していた。
→ 江藤が返却BOXの横に立っていた。
→ 返却された本のバーコードは、スキャンされないままだった。
全部覚えている。
でも、証拠にはならない。
だって、それを“見ていた”のは澪ひとりだったから。
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> 「信じられるかどうか」って、
“記憶”の精度じゃない。
“人数”なんだ。
自分ひとりの正確な記憶より、
3人の“曖昧な共通認識”の方が、
「真実」になってしまう世界。
澪は静かに、目を閉じた。
> ——私は、間違っていない。
——けれど、そう言えば言うほど、
“言い訳がましく”なるのを知っていた。
それが一番、狂いそうだった。
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