第一章 奈落 5,6

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 階下に戻ると、母は台所で夕食の支度を始めていた。比奈子が母の隣で玉ねぎの皮をむき始めると、母はまた同じ事を言った。

「樹くん、どうして今年は来なかったのかしら」

 いかにも不思議そうな言い方だった。

 比奈子は皮むきの手を止めて、思わず母を見た。

 知らないのだろうか。

 雄大がいつも電話をかけて樹に来るように働きかけていたことを、この母は知らなかったのだろうか。

 夕食のあと風呂に入り、自室でくつろいでいると早瀬明里からメールが着信した。

『明日、学校くる?』

 雄大の死の後、比奈子は大学を休んでいた。母が心配だったこともあるが、比奈子自身、とても大学に行けるような精神状態じゃなかったのだ。卒業に必要な単位はほぼ取ってあったので、二か月くらい休んでも問題なかった。

 大学を休んでいる間、比奈子は一度も明里に連絡をしていなかった。明里からのメールを受け取って、そのことに気づいてはっとした。きっと明里はずっと比奈子のことを心配していたに違いないのだ。

『いままで連絡できなくてごめん。明日、行くつもり』

『了解! 大変なことがあったんだもの気にしないで。会うのが楽しみ』

 楽しみ、のあとに笑顔の絵文字がついていた。

 明日からもとの普通の生活に戻るのだと思うと、またキリリと胸が痛んだ。自分はもとに戻れても雄大は決して戻れない。

 死んでしまったのだ。雄大は本当に死んでしまったのだ、と心が乱れそうになるのを必死に押しとどめて、比奈子は肩で息をした。

 明里は『楽しみ』と深い意味もなく簡単に言うが、自分に『楽しみ』があってはいけないと思う。雄大がこの生を今後一切楽しめないのに、どうして姉の自分が楽しんだりできるだろう。

 顔を覆ってベッドに倒れ込んだ。泣けば止めどなく泣いてしまいそうである。唇を噛んでこらえ堅く目をつぶった。

 階下から聞こえる父の声で目が覚めた。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。

 父の声は押し殺してはいるが、だれかに対してひどく怒っているようだ。この家にいるのは比奈子と父の他は母だけだ。だが母の声は聞こえず父だけがなにかを執拗にまくし立てていた。

 父と母の仲がそれほどよくないのではないか、と思ったのは小学六年生の時だった。夏休みに登別温泉に家族旅行をした。高校生の樹は行かなかった。車の中で小学一年の雄大は大はしゃぎだった。地獄谷と熊牧場へ行き、登別マリンパークニクスでイルカのショウを見た後、土産物屋をのぞいて暗くなってから宿に着いた。食事の前に温泉に入ったのがいけなかったのか、雄大は部屋に戻るなり疲れて眠ってしまったのだった。豪華な夕食が運ばれてきたが、雄大は目を覚ます気配がない。父の機嫌が悪くなったのはその時だった。「雄大を起こせ」と母に厳しい口調で言った。「でも……」母は困り顔で口ごもる。雄大を起こそうという気はないらしい。「いいから起こせ」「でも疲れたんだわ」母はようやくそう言った。「赤ん坊じゃあるまいし」「まだ一年生ですから」父と母は静かに言い合いを始めた。どちらも譲ろうとしなかった。比奈子はハラハラして二人のやりとりを見守っていた。

 最後に折れたのは父だった。「おまえが甘やかすから」と吐き捨てるように言ったのを覚えている。そのあと雄大が夕食を食べたのかどうかは覚えていないが、家に帰るまで父と母は口を聞かなかった。

 それまでは自分の両親は喧嘩をしないので仲がいいのだと思っていた。だが子どもが見ている時には喧嘩をしないようにしていただけで、こんなふうに意見が食い違うことがあるのか、とあの時初めて驚いたのだった。

 階下から聞こえてくる父の声は、それ以上の驚きだった。父がこんなふうに母を、たぶんなじっていることが信じられない思いだった。

 母はようやく雄大の死から立ち直りかけている時だ。母がどれほど心身にダメージを受けたか、父だって知らないはずはないのだ。そんな母に優しい言葉をかけるどころか、いったいどんな言葉で責めているのか。

 比奈子は部屋を出て、そっと階段の中腹まで降りた。

 比奈子の足音が聞こえたわけでもないだろうが、父の声は小さくなった。言うだけのことを言って気がすんだということだろうか。

 父の声はぼそぼそと低く続いている。ふいに、「比奈子も」という語が聞こえて心臓がドクンと大きく鳴った。

「比奈子も雄大も、結局は甘ったれじゃないか」

 父は吐き捨てるように言うと洗面所に向かったようだ。

 比奈子は足音を忍ばせて階段を上った。自分の部屋に入ってもまだ動悸が収まらなかった。

 父とは義理の間柄であるから、多少の遠慮はあるものの仲のいい親子だと思っていた。父がことさら比奈子を褒めるようなことはなかったが、しっかり者の娘だと思ってくれているはずだった。子どもの頃から比奈子は、「しっかりしたお嬢さんね」というような大人たちの褒め言葉を聞いて育ち、自分でもそう思っていた。父の本音はしっかり者の娘とは逆だということか。

 改めて父の本心を聞いて、そういえばと思い当たることがある。初めから感じていた、どこかよそよそしく薄い膜を隔てたような父娘の関係の根本には、こういう父の思いがあったのだろう。

 だが、比奈子は自分が甘ったれと称された事よりも、雄大がそう言われたことのほうが衝撃だった。

 雄大は小さな頃から利発な子で、学校の成績もきょうだいのだれよりもよかった。父も期待をかけていたはずである。はたから見ても父は樹と同じような愛情を、雄大にも持っていた。だがそれは勘違いだったのだろうか。

 父にとって樹だけが特別なのだろうか。比奈子や雄大を甘ったれと言うのなら、せっかく就職した銀行を数年で辞めてしまって、ウエブデザイナーとかいう仕事をやっている樹のほうが甘いのではないだろうか。

 

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 久しぶりの大学は比奈子に新たな活力を与えてくれたような気がした。緑の葉の代わりに雪を載せたキャンパスの木々や、赤い三角屋根の資料館に降り積もった雪も、一際美しく見えた。羽毛にたっぷりと空気を抱いたまん丸の雀が、身を寄せ合ってフェンスにとまっている。

 雄大がいない世界で自分が生きていることや、そこら中に美しいものが変わらず存在していることが悲しみを誘う。

 雄大が死んでもなにも変わらない世界に憎しみすら感じる。それでも比奈子の目と心は、美しいものや儚いものや温もりのあるものを捉えて、心を動かさずにはいられなかった。

 友人の中には雄大のことを知らない者もいて、罪悪感を伴いながらもわずかな安らぎを感じるのだった。

 講義が終わったら明里の家に行くことに話は決まっていた。久しぶりにゆっくりお喋りをするにも、人目を気にせず寛げるところがいいと思ったらしい。明里らしい気遣いだった。

 連れ立って地下鉄の駅に向かう。いつもなら最寄りの新道東駅まで一本で行ける北13条東駅を使うのだが、雪の降り方が強くなってきたので、比較的近い北18条駅から乗ることにする。南北線の北34条駅からバスに乗り新道東駅で降りるというのが、こういう時のルートだった。

 駅は大勢の人で混み合っていた。特に目立つのが観光客らしい外国人だ。多く聞こえる中国語に混じって、韓国語、英語、ドイツ語も聞こえる。もうすぐ始まる雪まつりが目当てと思われた。

 地下鉄の中はダウンコートで着ぶくれした人の熱気が籠もっていた。コートを脱いで腕に掛けている人もいる。

 比奈子は中吊り広告を見るともなしに見ていた。すすきのの猟奇的な殺人事件の裁判が行われるらしく、その特集記事の見出しが赤い活字で躍っている。その隣には定山渓温泉のホテルの広告が、雪明かりと湯煙とで彩られていた。

 いつの間にか月日は流れていたのだな、と改めて思う。はたから見れば、母と比奈子は世の中の流れに取り残されているのだろう。だからと言って、どうにかしようとは思わないし、このままでいいとも思わない。正直言って、それを考える心のゆとりはないのだった。

「麻生まで行ってタクシーに乗らない?」

 明里が言う。このあとバスに乗り換えるのが嫌になったようだ。暑さと混雑にうんざりしたらしい。

 比奈子は同意したが、学生の身分で簡単にタクシーを使う明里には心からは賛同できなかった。

 明里の家は以前はその辺一帯の地主だったそうで、かなり裕福な家だ。今でも二百坪はある土地に建つ堂々とした日本家屋に、祖父母と両親、弟の六人で住んでいる。

 父親の謙介けんすけは東区にある大きな病院の医師で、母親の千鶴ちづるは麻生のファッションビルで週に三回、フラワーアレンジメントの教室を開いている。弟の翔太しょうたは小樽商科大学に在籍する秀才だ。明里とよく似ていて長身でイケメンだ。相当にもてるようで、小樽からわざわざ翔太に会いに来る女子大生もいるという。

 そういう家庭なので、比奈子とはおもに経済的な点で考えが食い違うことが多い。だが、明里も心得ていて自分からタクシーに乗ろうと言ったり、ちょっと高級なものを食べようと言ったりするときは、比奈子の分も出してくれるのだった。

 春になって就職すればますます経済的な差は広がるだろうな、と比奈子はぼんやり考える。そんなことで二人の関係が変わるとはとても思えない。金銭感覚はちょっとずれているかもしれないが、明里は基本的に真面目で堅実な性格だからだ。

 麻生駅から地上に出ると、雪はさらに強さを増していた。雪にまみれた乗客とバスの中で押し合いしなくてすむのはありがたい。

 タクシー乗り場に向かって歩くと、昔からある寿司屋の前を通りかかった。そこの職人なのか白衣に白い帽子を被った若い男が、看板に積もった雪を箒で一生懸命に落としていた。

 落とし終わって顔を上げた若い男と、比奈子がばったりと顔を合わせた。

「あ」

 思わず比奈子から驚きの声が漏れた。

 若い男も声にならない声をあげて目を見開いた。

小出こいでくん、だよね」

 懐かしさと親しみと、久しぶりに会った喜びを込めて比奈子は問いかけた。

 しかし小出は頬を強ばらせ、不自然に歩道に積もる雪山を見ると、なにかをつぶやいた。「すみません」と聞こえた気がした。そして慌てて店の中に入ってしまった。

 降りしきる雪が、「杉むら」という濃い墨文字の看板を早くも隠そうとしていた。

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