献身
和久井清水
第一章 奈落 1、2
1
十月の空は暗く、厚い雲に覆われていた。雲の向こうに太陽があることなどだれも気がつかない。空気は冴え冴えと澄み、街の喧騒はまるで薄い膜を隔てているように鈍く響いてくる。
もうすぐ冬が来る。夏の記憶はもうどこにもなかった。
札幌の街は、これからひたすら冬に向かって進んでいくのだ。
「あっ、見て。雪虫」
隣を歩いていた
比奈子と明里は同じ大学の四年生だ。高校時代からの友だちで、ともに来春の就職が決まったことを二人で祝うために、地下鉄の駅に向かっているところだった。
通称東16丁目通りは片側二車線の、交通量が多い道路だ。比奈子と明里はこの道を挟んで東西にそれぞれ家がある。家は近いのだが、小学校中学校と校区が違ったために知り合う機会はなかった。高校で初めて出会い、不思議と馬が合った。進学した大学も同じだったこともあってずっと親しい関係を続けていた。
「雪虫よ。早くない?」
明里がはしゃいだ声で比奈子に訊く。
「遅いくらいだよ。毎年十日頃じゃなかったかな」
雪虫を見ると一週間後に雪が降ると言われている。だから毎年、この時季に飛んでいる雪虫を見ると、まるでおぞましいものでも見たかのように愚痴をこぼすのだった。「あー。雪虫飛んでるよ」「もうすぐ降るんだ」「嫌だね」というお決まりの会話が交わされる。
そういえば今朝の新聞のコラムに雪虫の話が載っていた。こんなにもこの季節に雪虫を気にするのは道民だけだろうか。生まれてからずっと北海道で暮らしている比奈子には、その辺のことはよくわからない。だがまわりでは、比奈子も含めて総じて雪虫は冬を連れてくる嫌われ者という扱いだ。
雪虫はピンと張りつめた冷たい空気の中を、まるで雪が舞うように幻想的なダンスをしている。比奈子はそれを見るたびに中学で習ったブラウン運動を思い出す。目的もなく漂うように飛ぶ姿は、それが虫ではなくやはり雪のようだと改めて思うのだった。
「もうすぐ冬なんだね」
明里の華やいだ声はもう、冬の向こうにある春を見据えているようだ。
比奈子もまた同じだった。春からは幼稚園教諭としての第一歩を踏み出す。子どもの頃からの夢がいよいよ叶うのだ。幼い子どもたちとともに過ごす日々は、きっと輝くような美しい世界に違いない。
明里の就職先はテレビ局の下請け会社だ。本命はもちろん大手のテレビ局ではあったが、五番目か六番目の志望がその会社だった。早々に進路が決まった比奈子に対して、明里の就活は難航していた。それでもこの時期に決まって、明里は言うまでもなく比奈子もほっとしたのだった。
二人とも希望の仕事につけたことが、この上もなく嬉しかった。互いの幸運と健闘を称え合って、二人の友情はますます強固なものになった。
思えば高校から大学にかけての数年間は、思い描いていたものとはまったく違っていた。
高校三年生のときにコロナのパンデミックが起き、修学旅行は中止になった。卒業式も簡素なものになり、友人たちと思い出を作る機会は突然に奪われた。なんとか大学に入学したものの、四月には緊急事態宣言が発令され、授業はほとんどがリモートだった。新しい環境に飛び込むはずだった期待は裏切られ、画面越しの世界が大学生活の中心になった。
友達と対面で話す機会も少なく、キャンパスライフと呼べるようなものはなかった。もちろん、比奈子だけが辛いわけではない。誰もが同じ状況に置かれ、それぞれに苦しみを抱えていた。でも、それでも、やっぱり辛かった。楽しみが次々と奪われていくような感覚が続き、出口の見えない日々のなかで、「この先、世界は変わってしまうのだろう」と恐怖に震えた日もあった。
そんな苦しい時期、唯一の慰めは明里の存在だった。メールや電話やメッセージアプリで励まし、励まされ、二人はなんとかコロナ禍という未曾有の事態を乗り越えようとした。
だが、思ったほど世の中は変わらなかった。制限が徐々に緩和され、街には人が戻り、大学にも足を運べるようになった。最初は戸惑いながらだったが、だれもが少しずつ日常を取り戻していった。
雪虫を見て屈託のない声を上げた明里の気持ちがよくわかる。あの不安に満ちた数年間を乗り越えたという、開放感と自信と希望がない交ぜになった思いが、雪虫が飛ぶ姿を見ても春への期待で胸を一杯にするのだ。
今日は二人で映画を見て、大通りのイタリアンレストランで食事をする予定だった。
地下鉄の駅まで二百メートルほどのところまで来た時に、前方に回転する赤色灯が見えた。比奈子たちがいる場所と、地下鉄の駅のちょうど中間地点だ。そこは数十年前に建った古い十階建てのマンションで、エントランスが小さな公園のようになっている洒落た建物だった。
パトカーと救急車。そして十数人の野次馬がそれを取り囲んでいた。
「なにかあったのかしら。病人?」
明里が首を伸ばして問い、少し歩調を速める。
「パトカーも来てるから違うんじゃないの」
比奈子は明里を追いかけるようにあとに続いた。
毛糸の帽子を被った老人の後ろから、人々の視線の先をのぞき込む。
救急隊員がストレッチャーを押して到着した場所には、黒いズボンをはいた男性が横たわっていた。上半身は花壇の植え込みの中に隠れている。下半身だけがアスファルトの上に投げ出されていた。
比奈子が「ひっ」と音を立てて息を吸うのと、明里が「飛び降り?」と囁くのが同時だった。
警察官が数人こちらに背を向けて立っているのが邪魔して、よくは見えないが若い男のようだった。
「若いね。高校生くらいかしら。自殺だよね。受験の悩みかな」
明里の冷静な声は聞こえてくるが、それに返事をする余裕はなかった。
命のない肉体がそこにあるというだけで、比奈子の心は恐怖で押し潰されそうだった。冷たいアスファルトの上に横たわっている人は、ほんの数分前まで生きていたのだという事実が迫って来る。その人が若くても老人でも関係ない。生から死へと一瞬で切り替わってしまったことが、それも自分の意志でそうしたことがたとえようもなく非現実的で恐ろしかった。
比奈子は口を覆っていた両手に顔を伏せた。まわりにいる野次馬が興奮を隠せない様子で囁き合っている。
「高校生らしいよ」
「このマンションの子じゃないって」
「やっぱり自殺なの?」
「なんで他所のマンションで?」
迷惑だと言わんばかりの声音は中年の女性だった。
「ここさ、古いから。非常階段の鍵が壊れててだれでも屋上に上がれたんだってさ」
「だからここを選んだの?」
「そうなんじゃないの。自殺しやすかったから」
女性は真面目に言ったらしいが、そばの知り合いは、「ばっかねえ」と冗談に受け取ったようだ。
話しているのは住人ではなく近所の人のようだ。このあたりはマンションと古くからある家屋が混在している地域で、マンションには主に若い世帯が住み、一戸建ての家には老夫婦が住んでると思われる。熱心に噂話をしているのは近隣の住民らしかった。年配の人らしいしわがれた声で、耳も遠いのかこの場にそぐわない声高な話し声だった。
「明里、もう行こうよ」
比奈子はたまらなくなって明里の腕を取った。
すると警官と救急隊員に動きがあった。男性をストレッチャーに乗せようとしている。
比奈子が目にしたのは、黒いコートにナイキのスニーカーだ。
弟の
「大丈夫? 顔色が悪いよ」
「大丈夫よ。弟と同じくらいの子みたいだから、なんだかショックを受けちゃって」
今日は二人の就職祝いなのだ、気分が悪いからといってやめにするわけにもいかない。
「そうだよね。私もショックだよ。でもさ、美味しいもの食べれば元気になるよ」
明里は弾むような足取りで横を歩く。「お酒も飲んじゃおうよ」などと、もうすっかり気持ちを切り替えたようだった。こういうところは、ほんとうに明里らしい。強い人だと、羨望を込めて思う。
比奈子は、「ちょっと高いワインにしちゃう?」と、つとめて明るい声で答えた。
だがその日、比奈子と明里は予約したイタリアンレストランに行くことはなかった。
2
映画館のある札幌駅で降りた時、比奈子のスマートフォンに着信があった。父の勝弘からだった。この時間は仕事をしているはずで、電話がかかってくることなどこれまでにはなかった。
その時、比奈子にはなんの予感も胸騒ぎもなかった。数十分前に飛び降り自殺の現場に居合わせたことなど頭からすっかり消え去っていた。
だから父からの電話も、「なんの用だろう」と不思議に思いながら、「はい、もしもし。なあに」と明るく応答したのだった。その時の自分の声を比奈子はあとで何度も思い出す。最愛の弟が自殺を図り生死の境をさ迷っているというのに、自分は何一つその予兆を感じることができなかった。
雄大が自殺を考えてあのマンションの非常階段を上っているときも、あんなに近くに自分はいたのに自分のことだけを考えて、来春の希望に満ちた生活に思いを馳せて浮かれていたのだ。
アスファルトに横たわる雄大を見たのに。
それなのに雄大だと気づかなかった。
弟の一大事に虫の知らせすらないのは、自分に弟を思う気持ちが足りなかったせいではないか。
あの日、雄大はマンションavenirの屋上から飛び降り自殺をし、病院に運ばれた。医師には最初から快復の望みはないと言われていたが、二日、三日と生きながらえる雄大に、家族は望みを持たないわけにはいかなかった。酸素吸入器をつけられ、頭に包帯は巻いているものの、顔に傷はなく眠っているような穏やかな顔だった。
今にもぱっと目を開けて「姉ちゃん」と、あの人懐こい顔で笑いかけてきそうだった。
「姉ちゃん、またダイエット? 今年、何回目? 姉ちゃんは別に太ってないよ。ぽっちゃりした丸顔が可愛いよ。うん。俺が言うんだから間違いない」
食事制限をして、白飯が半分ほどしか入っていない比奈子の茶碗を見て、雄大はそんなことを言った。言われたこっちが照れてしまいそうなことを、雄大はいつもいたって真面目に言うのだ。だからと言って、もう少し痩せたいという気持ちが変わるわけではないが、自分の大嫌いな丸顔がほんの少し好きになれた。
病院のベッドに横たわる血の気のない顔を見つめて、心の中で叫び続けた。「雄大、目を開けて。私はここよ。戻って来て」と。その時に、母も父も兄もそばにいたような気がするが、あまり覚えていない。自分自身、いつ眠って、いつなにを食べていたのかもまったく思い出せなかった。ただ時折、母が雄大の手を握って泣き叫ぶ声が、霧の向こうから聞こえてくるように遠くで
四日目の朝に、ついに雄大は意識を取り戻すこともなく逝ってしまった。
弟が死んだことが、とても現実とは思えなかった。だが、葬儀の手はずを整える父に言われるままに電話を掛けたり、支払いをしたりとこまごまとした用事を片付けていた。
雄大の葬儀は近親者だけでひっそりと執り行われた。親類も父、勝弘の会社の関係者も雄大の友人も参列することはなかった。家族だけで送りたい旨を伝えると、だれもがほっとしたように引き下がり、香典だけを郵送してきた。
葬儀には栗山町に住む母方の祖父母が参列した。父の両親はすでに他界していた。
母が祖父母に抱かれるようにして泣いていたのが目に焼き付いている。父と兄がどうしていたのかは記憶になかった。
葬儀が終わってどのくらいたった頃だろうか。比奈子の心は、ふいにたとえようのない悲しみに襲われた。その時に、まるで初めて知ったかのように弟が自殺したという現実が身に迫ってきた。受け入れられない事実をようやく受け入れられるまでに、心が正気を取り戻したのかもしれない。
自分を取り戻して、ようやく周りを見る余裕が生まれた。
母は病人のように痩せ衰えていた。それほどまでに自分のことしか考えられなかったのか、と比奈子は衝撃を受けた。
母は生気のない顔で一日中テレビを見ていた。どんな番組でも流れてくるものをそのまま見ていた。お笑い番組であろうとアニメであろうとお構いなしだった。だが、番組がニュースになると、慌ててリモコンを探し別のチャンネルに切り替えた。事件や事故のニュースは必ずと言っていいほど、人の死を報じるものがある。それは雄大の死を連想させるからだ。
母は今、バラエティ番組を見ていた。なにが面白いのか知らないが笑い声が頻繁に起こる。しかし母の顔は無表情にかたまり、能面よりも感情がない。
暗くなりかけた部屋の中で、テレビの毒々しい光を受けた母の顔を比奈子は数週間ぶりにちゃんと見たのだった。
若い男女のタレントが、温泉地で名物料理を食べてリポートする番組だった。いつ放送されたものか知らないが再放送であるようだ。タレントは名物の団子を頬ばりながら、なにか面白いことを言っているようだ。スタジオからはしきりに笑い声が起こる。
母が見たくて見ている番組ではないことはたしかだった。画面を見てはいるが、目はそこに映るなにものも捉えていない。母の心だってそこにあるとは思えなかった。魂は母の体を抜け出しどこかへ、たぶん雄大のもとへ飛んでいるのだろう。
「お母さん、今日はなにか美味しいもの食べようか」
比奈子は母の横に座って顔をのぞき込んだ。そうでもしなければ、比奈子がいることに気づきもしないだろう。
雄大の死を機に、家事はすべて比奈子がやっていた。その日その日をただやり過ごすために、なにも考えず機械的にやっていただけだ。兄は大学を卒業と同時に家を出ているので、父と母、そして自分の分の食事を朝と晩に作っていた。父の昼食は以前は母が弁当を作っていたのだが、さすがに比奈子にそこまではできなかった。たぶん父はコンビニで弁当を買うかしていたのだろう。比奈子は昨夜の残りやパンやお菓子などを、食べたり食べなかったりしていた。母が昼食をどうしていたのかを比奈子は知らない。比奈子と同じようなもので、お腹が空いていたらそのへんにあるものを適当に食べていたのかもしれない。
今思えば、少なくない量の料理がいつも残っていた。帰って来るはずの父が帰らなかったり、母がほとんど箸を付けなかったりしていたと思われる。比奈子はなにも考えずに残飯として捨てていた。もったいないと思う心のゆとりもなかった。あらゆることに感覚が麻痺していたとも言える。
洗濯籠に入っている洗濯物を洗って干し、掃除機をかけトイレと風呂の掃除を簡単にやって買物に行く。なぜ自分がなにもかもやらなければならないのか、それに気づくこともなかった。ただ一日を終えるのがやっとだったのだ。
だが、母の状態を見て、ようやくわかった気がした。この母に家事ができるわけがない。息をしてそこにいるだけでも奇跡のような気がする。
少し前の自分もこうだったのか。家事をやってはいたが、自分もこんなふうだったのだろう。母よりも一足先に抜け殻のようだった自分から我に返って、自分と母の苦しみが、どれほどのものだったのかを改めて思った。
母はごく普通の主婦だったが、比奈子にとっては世界一の母だった。いつも身ぎれいにしていていいにおいがしたし、比奈子の話を、包み込むような微笑みで聞いてくれた。料理が上手くて裁縫も編み物も、そしてピアノも上手だった。なによりも比奈子の気持ちをわかってくれる人は、この世に母だけだった。
母への思いは大人になってからも、あまり変わらない。おっとりしていてのんびりし過ぎるきらいはあるけれど、家族のことを第一に考える人だった。そして家族の一人一人に心を砕いて寄り添おうとする人だ。
比奈子が四歳の時、母は再婚した。二年前に離婚したのだ。そのとき比奈子は二歳だった。父の記憶はない。母と二人だけの暮らしがすべてだった。そこへ見知らぬ男が二人、比奈子の生活に闖入してきた。
そんな樹を勝弘は溺愛していた。比奈子に対するのとは明らかに違う態度は比奈子を困惑させた。勝弘を父だと教え、お父さんと呼ぶように母は言うけれども、いつまでたっても勝弘に親しみを感じることはなかった。
「お母さんね。比奈子ちゃんにお父さんとお兄さんをあげたかったの。すぐに仲良くなれなくてもいいのよ。ゆっくり時間をかけて新しい家族になりましょうね。お父さんもお兄ちゃんもきっと比奈子のことを好きになるわよ。だって、こんなに可愛くて素直でいい子なんだもの」
そう言って母は比奈子を強く抱きしめた。新しい父と兄はきっと比奈子を好きになってくれる。そう思うと勝弘のよそよそしさも樹の冷たさも、不思議と気にならなくなった。
――魔法の言葉。
比奈子は母の言葉をそんなふうに呼んでいた。比奈子が困っている時や苦しい時、悲しい時に母の発する言葉が比奈子を癒やし勇気づけ励ましてくれる。それは何気ない一言だったりする。特に格言めいた立派な言葉だったことはない。母の優しさは比奈子の身に沁みていた。
その母が今は雄大の死に打ちのめされ、そこから抜け出すことができずにいる。
「今日はお母さんの好きな物を作るよ。ねえ、なにが食べたい?」
母はテレビの画面を見たままだった。膝の上に置かれた母の手をとって、「ねえ」ともう一度言う。青白い顔はピクリとも動かない。
胸が締め付けられる。同時に激しい焦燥感にかられる。母はこのまま心を失くてしまうのではないか。こちら側に戻って来られないまま、どこか手の届かないところに行ってしまうのではないか。
「お母さん」
比奈子は母の肩を激しく揺すった。
母の目に理性の色が戻って来て比奈子をまじまじと見た。
「あら、ごめんなさい。なんだっけ」
「今日の晩ご飯、なにがいいって訊いたの」
比奈子は涙をこらえながら言った。喉が詰まって嗚咽がもれそうだった。
「比奈ちゃんの好きな物でいいわ。ごめんねお母さん、なんだか体が動かないの。ご飯作ってあげたいけど、どうしても……」
母は必死に涙をこらえている。泣いてはいけないと歯を食いしばっている。娘の前で、子どもの前で、母親は涙を見せてはならないと厳しく自分を律しているのだろう。
泣けばいいんだ。
私たち二人とも。
だが比奈子もまた目を瞠って必死に涙をこらえていた。
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