小説版 青春の残像、空の彼方

真久部 脩

第1話:『黄昏の網膜』


シーン1:偽りの白夜


シンは、朝が来ない世界に生きていた。

地軸移動プロジェクトによって、地球のこの温帯域は、永遠の夕暮れ、「定常ていじょう白夜びゃくや」の世界と化したのだ。

空は常に薄明かりで、太陽は地平線にへばりつくようにじっと動かない。


そして、この「黄昏」の世界には、奇妙な視覚現象がつきまとった。

物体から伸びるはずのない「影」が異常に長く伸びて見えるのだ。

それは地軸の傾きが作り出す光の屈折だと説明され、同時に、人々が抱える深い後悔や悲しみが具現化した「心の残像」だと信じられていた。


この視覚的なストレスを軽減し、少しでも明るく見せるため、人類は眼球埋め込み型コンタクトレンズ「ライティング・アイズ」を開発し、その装着を義務化した。


ライティング・アイズは、常に網膜を刺激し、知覚される光量を増幅させる。

無数の残像を重ねることで、世界はより鮮やかに、より賑やかに見ることができた。


しかし、その副作用として、影はさらに長く、そして濃く見えた。

人々はそれを「仕方のない副作用」として受け入れていた。


シンは、ライティング・アイズ越しに「明るい」世界で日々を送っていた。

かつて地軸移動プロジェクトに携わっていた技術者としての誇りも、そのプロジェクトで失った大切なものへの「悔しさ」も、今はもう心の奥底に沈んでいた。


かつての自分は、たとえ試練があっても理不尽に立ち向かう熱い人間だった。

だが、今のシンは、どんな苦境に立たされても、その長く伸びる影に飲み込まれるように、ただ下ばかり向いてしまう。


ライティング・アイズが映し出す「明るい」景色の中にいるはずなのに、彼の心には常に暗い影がまとわりついているようだ。

その自己嫌悪が、彼の視界に現れる「伸びゆく影」を一層長く見せているように感じていた。


このままではダメだ。

心の奥底で警鐘が鳴っていた。


シーン2:偽りの光、真実の闇


シンは、この「伸びゆく影」が単なる物理現象や心の残像だけではない、より根源的な真実の現れではないかという仮説を立てた。

彼の技術者としての鋭い直感と、かつての情熱が、微かに燻り始めたのだ。


彼は極秘裏に、ライティング・アイズが網膜に与える影響や、地軸移動による光の屈折率を再計算し、実験を重ねた。

度重なる実験の結果、ライティング・アイズが単なる「視覚補助」ではないのではないかという疑念が生まれていた。

ライティング・アイズは脳の視覚情報野にも接続されていることを突き止めたからだ。


シンは、「視覚補助」のない真の世界を見るため、自身の目に埋め込まれたライティング・アイズを強制的に取り除くことを決断した。


それは、自らがプログラミングしたセルフ手術ロボットで施術するという、命がけの手術だった。

彼は、この選択が下ばかり向いてしまう自分を変える最後のチャンスだと信じていた。


麻酔をロボットに打たれてカウントが読み上げられる。

胸の鼓動を感じたのは数秒…。


麻酔が覚め、シンの意識が覚醒する。

どうやら手術はシミュレーション通り成功したようだ。


ゆっくりと瞼を開いた彼の目に映ったのは──。

想像を絶する「真っ暗闇」の世界だった。

定常白夜の薄明かりはどこにもない。

そこは、まるで深淵のような漆黒の闇に包まれていた。


そして、シンが知る「人々」の姿も、生命の気配も、そこには一切なかった。


ライティング・アイズは、地軸移動によって滅びかけた人類が、最後の希望として作り出した、偽りの「明るい世界」と「人々」を映し出す大規模な幻影システムだったのだ。


そして、シン自身の目にまとわりついていた「伸びゆく影」は、物理的な影であると同時に、人類が目を背け、下ばかり向いてしまった「真実の闇」そのものだった。


シンは、自分がたった一人の「目覚めた者」であることを悟った。

絶望的な孤独の中で、彼はかつて自分を打ちひしがせていた「伸びゆく影」を改めて見つめる。

それはもはや彼自身の弱さの象徴ではなく、滅びた世界に唯一残された真実の痕跡であり、彼はたった一人でその真実の扉を開いたのだ。

それは「上を向け」と訴えかける、最後の警告と希望の『光』として感じ始めていた。


「あの頃の自分」が悔しさに抗ったように、シンもまた、この絶望的な真実から目を背けることなく、向き合うことを選ぶ。


広がる真っ暗闇の中で、伸びゆく影だけが彼と共に存在する世界を指し示している。

彼の「伸びゆく影」は、それこそが前に進むための光なのだ。

「真実と向き合う強さ」の象徴として、彼の前方を静かに寄り添い続けるのだった。


エピローグ:覚醒の涙


シンは、真実の闇の中で、静かに目を閉じる。

彼の心に、遠い過去の情景がフラッシュバックする。

あの日の悔しさ。伸びゆく影。そして、下を向く自分──。


ふと、重たい瞼がゆっくりと開いた。


そこに映るのは、見慣れた自分の部屋の天井。

壁にかけられたカレンダーの日付は「2026年3月11日」。


枕元には、読みかけの雑誌と、使いかけのコンタクトレンズケースが置かれている。

シンは、夢うつつの中で、自分の名前が「信次」であることを思い出す。


瞼の裏では、先ほどまで見ていたライティング・アイズの世界が、鮮やかな残像として焼き付いていた。


「あれ……?」


彼の目には、チクチクとした痛みが走っていた。

昨夜、疲れてコンタクトレンズを外すのを忘れて寝てしまったのだ。


瞳に広がる乾きと不快感。

その痛みから、とめどなく涙が溢れ出した。

涙は、彼の頬を伝い、枕を濡らしていく。

それは、コンタクトを外し忘れた痛みからくる涙であると同時に、まるで、夢の中で見た終焉の終焉の中での希望と、真実に覚醒した安堵、そして現代を生きる自分自身の現実を象徴しているかのように…。


窓の外は、すでに夕暮れ時。

ビルの影が長く伸び、彼の部屋にも薄暗い光が差し込んでいる。


「……このままじゃ、ダメだな」


信次は、痛む目から溢れる涙を拭いもせず、ただ静かに伸びゆく影を眺めていた。


---

悔しさに 空を仰ぎし あの日より

伸びゆく影を 眺む夕暮れ


(第1話 完)

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