四十七献め:凱旋の道のりと、厨の誓い

 旅籠はたごでの一夜が明け、あたしたちの長い旅路は、ようやく、本当の終わりを迎えようとしていた。

 黒瀧城くろたきじょうまで、あと半日の道のり。

 あたし、早乙女小春さおとめこはるは、馬の上で揺られながら、見慣れた故郷ふるさとの山々が、少しずつ、その姿を大きくしていくのを眺めていた。あそこにあたしたちの帰るべき場所がある。そう思うだけで、胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。


 昨夜の戦いは、まるで激しい熱病の後のように、あたしたちの間に、奇妙な一体感と、そしてどこか気怠けだるいような、穏やかな疲労感を残していった。行列の空気は、今までになく和やかだ。武士たちは、昨夜の武勇伝を語り合っては、声を上げて笑っている。その輪の中心には、決まって、あの旅芸人一座の小太郎こたろうさんたちがいた。


「いやあ、黒瀧の旦那方は、見かけによらず、なかなかの飲みっぷりでしてねえ。昨夜は、危うく、わたくしどもが秘蔵していた酒を、根こそぎ飲み干されるところでしたわ」


 小太郎さんが、芝居がかった仕草で嘆いてみせると、周りの武士たちが「何を言うか!」「そちらこそ、見事な飲みっぷりであったぞ!」と、楽しそうに野次を飛ばす。彼らは、一夜にして、ただの共闘相手から、かけがえのない《戦友とも》へと、その関係を変えていた。


 あたしの少し前では、政宗まさむね様が、珍しく、馬上から小太郎さんと直接言葉を交わしていた。


「……小太郎とやら。此度こたびの働き、見事であった。礼を言う」

「へい。わたくしどもは、楓花ふうか様との約束を果たしたまで。……それに、黒瀧の殿様が、ただの鬼ではないと、この目でしかと見届けられたこと、なによりの収穫でござんした」


 小太郎さんは、悪戯いたずらっぽく、ちらりとあたしの方を見た。その視線に気づいた政宗様が、大きな咳払いを一つする。


「……そなたら、この後は、どうするのだ」

「へい。我らは風の吹くまま、気の向くまま。またどこぞの町で、ひと騒ぎ起こすだけのこと。……ですが、もし、また黒瀧の姫君が、美味い飯を炊いてくださるというのなら、いつでも、せ参じますぜ」


 その言葉に、政宗様の眉間のしわが、ぐっと深くなったのが分かった。焼きもち焼きの殿様は、まだ健在らしい。あたしは、思わずくすくすと笑ってしまった。



「……あん殿」


 行列の少し後ろの方では、もう一組、ぎこちない、しかし確かな変化を迎えた二人がいた。


「は、はい。なんでしょう、十郎じゅうろう様」


 馬を並べて歩む、片倉十郎様と、藤林杏ちゃん。

 昨夜、主君の背中を守り抜いた筆頭家老様は、一夜明けて、なぜかまた、杏ちゃんの前で、ただの不器用な男に戻ってしまっていた。


「その……昨夜は、すまなかった。……そなたを、危険な目に」

「いいえ」


 杏ちゃんは、静かに首を横に振った。


「わたくしは、ただ、自分の無力さを、改めて思い知っただけです。十郎様が、駆けつけてくださらなければ……わたくしは……」


 うつむいてしまう彼女の顔は、悔しさに歪んでいる。薬師くすしとして、多くの知識と技術を持つ彼女でも、暴力という、あまりに直接的で、理不尽な力の前に、昨夜は何もできなかったのだ。


「……強くなりたい、です」


 ぽつり、と。彼女が、絞り出すように言った。


「小春様のように……とは、いきませぬとも。ですが、せめて、己の身と、そして、守りたいと思う誰かを、守れるくらいの力は……持ちたい」


 その、あまりに健気けなげな、そして切実な願いの言葉に、十郎様の心が、大きく揺さぶられたのが分かった。

 彼は、何かを言おうと、何度も口を開きかけては、閉じる。そして、長い、長い沈黙の後、意を決したように、彼は、杏ちゃんにまっすぐ向き直った。


「……ならば、杏殿」


 彼は、生まれて初めて、武士としての仮面でも、家老としての建前でもない、ただの一人の男としての、素直な言葉を、紡ぎ出した。


「その……俺が、教えよう。……護身の、すべを」

「え……?」


 きょとん、とする杏ちゃん。


「稽古は、厳しいぞ。泣き言は、聞かぬ。……それでも、よければ、だが」


 照れを隠すように、そっぽを向いて、早口で言う十郎様。

 その、あまりに不器用な、彼なりの「君を守りたい」という告白。

 杏ちゃんは、一瞬、呆気に取られたような顔をしたが、やがて、その意味を理解したのだろう。彼女の頬が、みるみるうちに、熟れた林檎のように、真っ赤に染まっていく。


「……はい」


 か細い、けれど、確かな声。


「……よろしく、おねがい、いたします。……十郎、先生」


 その、可愛らしい呼び名に、今度は十郎様の方が、石のように固まる番だった。



「……あの二人、どうやら、ようやく春が来たようだな」


 あたしの隣で、政宗様が、呆れたように、でも、どこか嬉しそうに呟いた。あたしも、自分のことのように、胸がいっぱいになって、何度も頷いた。


「はい! 本当によかったです!」


 皆が、それぞれの形で、新しい一歩を踏み出している。

 あたしは、あたしで、一つの大きな決意を、胸の内に固めていた。


 城に帰ったら、殿に、言おう。

 祝言を、挙げてください、と。あたしの方から。

 もう、彼に、黒瀧を捨てるなんて、馬鹿なことを言わせないために。あたしが、正式な奥方様になって、この黒瀧という、彼の背負う全てを、一緒に背負っていくのだと。

 その覚悟を、伝えなくてはならない。


 あたしたちの行列が、黒瀧城の城門をくぐったのは、昼過ぎのことだった。

 城内では、げん爺さんや、千代乃ちよのさんをはじめ、城に残っていた全ての者たちが、あたしたちの帰りを、今か今かと待ちわびていた。


「おお! 殿、ご無事のご帰還、何よりにございます!」

「小春様も、ご壮健で……! ああ、よかった……!」


 涙ながらに駆け寄ってくる皆の姿に、あたしの目頭も、熱くなる。

 ああ、帰ってきたんだ。あたしたちの、家に。


 その日の黒瀧城は、凱旋を祝う、ささやかな宴で、夜まで賑わった。

 あたしは、もちろん、その宴の料理の総指揮を執った。旅の疲れも忘れて、厨房に立ち続けた。あたしの料理を待っていてくれる、たくさんの笑顔に応えたかったからだ。

 宴が終わり、皆が幸せな酔い心地で眠りについた後。

 あたしは、一人、厨房の後片付けをしていた。昼間の決意を、いつ、どうやって殿に伝えようか。そのことばかりが、頭の中をぐるぐると回っていた。


「……まだ、起きておったか」


 静かな声に振り返ると、そこにいたのは、寝間着姿に着替えた、政宗様だった。宴の酒で、その頬はほんのりと赤らんでいる。


「殿こそ。もう、お休みになられたのでは」

「いや。……そなたが、まだ厨房にいると、千代乃に聞いてな」


 彼は、少し気まずそうに、厨房の中へと入ってきた。そして、あたしが磨いていた、大きな寸胴鍋ずんどうなべを、じっと見つめている。


「……また、鍋を、磨いておるのか」

「はい。……これが、あたしの、一番落ち着く時間ですから」

「……そうか」


 あたしたちの間に、静かで、温かい沈黙が流れる。

 言うなら、今しかない。


 あたしは、一度、布巾を置くと、彼にまっすぐ向き直った。

 心臓が、早鐘のように、どきどきと鳴っている。


「あのう、殿」

「……なんだ」


 あたしが、意を決して、口を開きかけた、まさにその時だった。


 厨房の外から、慌ただしい足音が、こちらへと近づいてきた。


「ご、ご注進! ご注進にござります!」


 息を切らして駆け込んできたのは、城に残っていた、若い見張りの兵士だった。その顔は、真っ青だ。


「ど、どうした。騒がしい」


 政宗様が、鋭く問う。

 兵士は、震える声で、叫んだ。


「さ、早乙女家より、使者が……! 小春様の、ご実家より……!」

「なに……!?」


 あたしの、実家から? なぜ、今頃?

 胸騒ぎが、あたしの心を、急速に冷たくしていく。


 兵士は、続けた。


「姫様の……その、妹君が、病に倒れ……今まさに、命尽き果てんとしておると……!」



「……それで、話とは、何だ」


 謁見の間。

 政宗様の低い声が、冷たく響き渡る。

 彼の前には、旅の汚れもそのままに、一人の男が、深々と平伏していた。あたしの、父上だった。


「は、ははっ……。こ、此度は、殿の御武運、誠に、慶賀の至りに存じます……」


 父上は、脂汗をだらだらと流しながら、おべっかを使うように言う。

 あたしは、その光景を、政宗様の少し後ろに控えた場所から、ただ黙って見つめていた。

 妹が、危篤。その知らせは、もちろん、嘘だ。あたしを、城から、故郷の家へと連れ戻すための、見え透いた口実に過ぎない。

 あたしが、黒瀧の奥方になる。その噂が、彼らの耳にも届いたのだろう。そして、焦ったのだ。あたしという、金のなる木を、手放すことになるのが。


「用件を言え」


 政宗様が、冷たく、言い放った。

 父上は、びくりと肩を震わせると、ようやく、本題を切り出した。


「はっ……。その、小春との、契約の件に、つきまして……。先日お送りいただいた、米だけの支援では、我が早乙女家、立ち行かず……。つきましては、契約を見直し、改めて、金銭での……」

「断る」


 食い気味に、政宗様が言った。


「その儀については、先日、書状にて伝えたはずだ。早乙女家への援助は、米のみ。……契約に、相違はない」

「そ、それを、何とか……! この通りにございます、殿!」


 父上は、額を床に擦り付け、何度も何度も頭を下げた。その姿は、あまりに、みじめだった。

 あたしは、もう、見ていられなかった。


「……父上」


 静かに、あたしが声をかける。

 父上は、はっとしたように、顔を上げた。


「……もう、おやめください。……見苦しゅうございます」


 あたしの、冷たく、突き放すような声。

 父上は、信じられないという顔で、あたしを見つめている。あたしが、彼に、逆らうなんて。


「……何を、言っておるのだ、小春! お前は、この父の、言うことが聞けぬのか!」

「いいえ」


 あたしは、ゆっくりと立ち上がると、彼の前に進み出た。

 そして、生まれて初めて、この人を、侮蔑と、憐れみの目で見下ろした。


「あたしはもう、あなたの、道具ではございません」


 その言葉は、誰よりも、あたし自身を、過去のしがらみから、解き放つための、誓いの言葉だった。

 父上は、怒りに顔を真っ赤にして、何かをわめいている。

 でも、その言葉は、もう、あたしの心には、届かなかった。


 あたしは、父上に背を向けると、政宗様の前へと進み出て、その隣に、毅然と、並び立った。

 そして、今まで言えなかった、あの言葉を、この、情けない男の、目の前で、告げるのだ。


「――殿」

「……なんだ」


 あたしは、彼の、大きな手を、ぎゅっと握った。


「祝言を、挙げてください。……あたしを、殿の、本当の奥方様に、してください」


 その言葉を聞いた、父上の顔が、絶望に染まっていくのを、あたしは、目の端で、確かに見ていた。


「……ああ」


 あたしの隣で、政宗様が、本当に、嬉しそうに、笑った。


「……喜んで」

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