第4話 空白の答案

部屋の机に、使い古したノートが一冊置いてあった。

 兄の字だ。几帳面で、どこか力の抜けた──でもどこか、安心感のある文字。


 「これ、まだ持ってたんだ……」


 妹──奈月はそのノートを静かに開いた。ページの隅に“自習用”と走り書きされた答案プリントが挟まっていた。もう一年も前のものだ。兄が高校2年だった頃の試験問題。

 その隣に、そっくり同じ答案がもう一枚あった。けれど、違うのはそこに書かれた文字が妹のものであり、最後まできちんと埋められていないこと。


 ──模写。兄の答案を、そっくりそのまま書き写した練習。

 けれど途中で筆が止まり、バツ印が引かれていた。自分で引いたのだ。


 (こんなの、意味ないよね……)


 奈月は小さく笑った。自嘲のように、でもどこか懐かしむように。


 ──あの頃、自分のほうがずっと成績は良かった。テストの点数でも、模試の偏差値でも。

 でも、なぜか兄に勝った気がしなかった。


 たぶん、それは“勝ちたい”と思っていたわけじゃなかったから。

 ただ──振り向いてほしかった。


 兄はいつからか、自分のことを「放っておいてくれる存在」として扱うようになった。

 “できる妹”という仮面のまま、向き合わなくなった。


 「もう、いらないよね。これ」


 ノートを閉じようとしたとき、ページの隅に小さな文字があった。


 《お前が困ったら、これ見ろ》


 兄の書いたメモ。自分の答案じゃない、兄自身の文字。

 1年前、何気なく渡された時は気づかなかった。いや、きっと気づかないようにしていた。


 奈月は目を伏せ、深く息を吐いた。


 ──先週、兄のカーディガンの色が変わっていた。以前は地味な灰色ばかりだったのに、あの日は濃い藍色だった。

 それが、ずっと気になっていた。


 (兄は、変わったんだ)


 自分が知っている兄じゃない、違う誰かになっていくような感覚。

 それが怖くて、だからあの時は冷たくした。


 けれど本当は──


 「……私が、置いていかれたんだよね」


 奈月はゆっくり立ち上がり、プリントをそっと引き出しの奥へ戻した。

 その横に、兄のノートも丁寧にしまう。


 (今はまだ、勝てない。勝ちたくない。……でも)


 ふと、窓の外に目をやると、夕焼けが街を赤く染めていた。


 (兄とまた話せる日が、くるかな)


 強くなりたい、と思った。

 勉強じゃなくて──ちゃんと、自分の言葉で。


 カーディガンの色なんてどうでもいい。

 ただ、兄の横に、少しでも並べたら。それだけでいい。

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