強気で孤独な令嬢は、偽りの結婚を真実の愛に変えたい
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第1話 孤高の伯爵令嬢
時は1907年(明治40年)12月。大日本帝国は二年前の日露戦争で勝利を収めたはずなのに、世間には沈鬱な空気が流れてきた。
戦後恐慌とその後の不景気に、多くの人が苦しめられていたのだ。
そして、それは華族、黒川伯爵家も例外ではなかった。
「つまり、私に借金の片に嫁に行け、とお父様はおっしゃるのですか?」
伯爵令嬢、黒川琴音はそう問いかけた。十五歳になったばかりの琴音は、まだ女学生だ。
琴音は少女にしては背がすらりと高く、そして、十人いれば十人が認めるほど美しかった。
もっとも、それが琴音にとって良いことかどうかは別の話だ。
妾の娘である琴音は、その可憐な容姿を理由に継母や姉妹からは疎まれていた。女学校では成績も一番良かったのだが、周りからは敬遠されていた。
琴音が才色兼備なのに嫉妬したからだ、と琴音は思っている。
ついでに琴音の預かり知らないところで、いたずらで勝手に美人写真コンテストに応募させられていて、優勝してしまったのも良くなかった。おかげで教師からも素行不良扱いされている。
そのうえ、琴音は気が強く、曲がったことが許せない。そのせいでますます嫌われ、迫害されてきた。
そして、今度は美少女であることを理由に、身売り同然の結婚を強いられるのだから。
父、つまり黒川伯爵家の当主は、目に見えて顔色を悪くした。
「人聞きの悪いことを言わないでくれ。これは良縁だ。相手はあの矢内原財閥の次男なのだから」
華族、つまり日本の貴族は肩書こそ立派でも、実際は貧乏な家も多い。黒川伯爵家のような、弱小公家の末裔ならなおさらそうだ。
黒川伯爵家は、先祖をたどれば平安時代の花山天皇にたどり着く。九百年の歴史を誇り、朝廷に仕えてきた。公家でありながら、かつては黒川伯王家と呼ばれ、黒川神道という宗派を率いる宗教家でもあった。
だが、それも過去のこと。
浪費家の父は芸者遊びにうつつを抜かし、多額の借金を作った。そうして生まれた娘の一人が琴音でもある。
やがて黒川家の財産は尽きた。だが、初値の父はそれでも遊蕩三昧をやめなかった。
こうして黒川伯爵家は多額の借金を作り、その肩代わりをしたのが矢内原財閥だった。
そして、矢内原家は琴音を次男の嫁とすることを要求してきた。
だから、琴音の言うとおり、「借金の片」というのは事実のはずだ。そして、父の隣に座る女、つまり継母である正妻が裏でそれを推し進めていたことも、動かない事実。
もともと華族の娘に恋愛や結婚の自由などない。とはいえ、こんな経緯で嫁がされるのは、琴音にとって不本意だった。
だが、琴音はしばらく考え、そして、にっこりと笑った。
「わかりました。お父様たちのためですから、わたしが身を犠牲にして矢内原さんの家に嫁ぐとしましょう」
「ようやく納得してくれたか」
父はさも当たり前だ、という表情で言う。
すべては父が招いたことなのに、礼の一つも言わないのか、と琴音は心の中で毒づいた。継母が「薄気味悪いくせに、聞き分けのない子。芸者の娘をちゃんと結婚させて上げるというのに」と小声で蔑むように言う。
継母や姉妹、女学校の同級生が琴音を嫌っている理由はもう一つある。
琴音には見えないはずのものが見えるのだ。
☆
琴音は考えた。
嫁がされる相手方の矢内原家が何を考えているかわからない。だが、おそらく名門公家の血を引いていて、ついでに美少女なら誰でも良かったのだろう。
成り上がりの金持ちが考えそうなことだ。
だから、金で妻を買ったわけだ。
もっとも、あの両親だったら、琴音を遊郭に売りつけるぐらい平気でするだろう。
それに比べれば、成り上がりの財閥への身売りは、マシな話しかもしれない。
だが、琴音はこんな話に納得するほど、「おとなしい良い子」ではないのだ。だいいち、こんな経緯で嫁を見つけようとする矢内原の次男はろくでもない人間に違いない。
矢内原財閥の次男ともなれば、他にいくらでも家柄の良い相手を見つけることもできたはずだ。そこを強引に琴音を選んだのは、美人写真コンテストで入賞した美貌を欲したのか、それとも九百年の黒川家の血筋に惹かれたのか。
聞けば、矢内原の次男は東京帝国大学文科大学を卒業した後、高等遊民、つまり遊び呆けているという。そこも琴音は気に入らない。遊蕩三昧の父と重なって見える。
あるいは、琴音のことも正妻ではなく妾にしようとしているのではないか。いや、おそらくそうだろう。飽きたら捨てられる、金で買った玩具にすぎないということだ。
乱暴者で自分勝手だとも噂を聞く。
であれば、こんな結婚、まともに相手にする必要はない。
その日の夜、琴音は誰にも告げず、こっそりと屋敷を抜け出した。
別れを告げるべき家族も、仲の良い使用人も誰一人いない。女学校の袴姿で、ありったけの所持金をかき集めて夜の闇へと飛び出した。
かつて黒川家は京都御所の近くに屋敷を構えていたが、御一新のあと、他の公家と同様に、帝都へと居を移した。
今の屋敷は下谷区池之端の片隅にある。かつての旗本屋敷を譲り受けたもので、本当に小さな屋敷だ。
(こんなところにいつまでも囚われているつもりなんてないの)
どこか別の場所、別の世界へ行けたのなら。そこには琴音の居場所があるかもしれない。
琴音は行方をくらませるつもりだった。華族としてではなく、ただの平民の少女として生きていくのだ。
実際、華族令嬢がカフェの女給になったり、あるいは宝塚歌劇の女優になったりした事例はある。
そんなことが可能かはわからない。でも、黙ってこのまま運命を受け入れるつもりはない。
(きっとどこかに、わたしを必要としてくれる人がいるはずよね)
琴音は坂を下りながら、心のなかでつぶやいた。
折り悪く雪が振りはじめる。傘なんて持ってきていない。
しばらく歩いて東京帝大のある本郷のあたりに出た。そこから東京市電に乗れるはずだ。
そんなとき、後ろから声をかけられる。
「
心地よい低音が琴音の耳を打つ。振り返ると、そこには長身の男が立っていた。琴音も女子としては背が低くない方だが、その男性は琴音より遥かに背が高かった。
平均的な日本人男性からは考えられないほどの高身長だ。黒いインバネスコートを羽織っているから、まるで巨大なカラスのようだ。
ただ、その男は単に背が高いだけではなく、極めて容姿端麗だった。二十代後半ぐらいだろうか。
線の細い、繊細だが整った顔立ち。そして、柔らかいが凛とした眼差し。
そして、彼はにっこりと笑った。
女性ならば誰しも心を奪われるような、危険な魅力のある笑顔だった。
琴音は一瞬、彼に見とれ、それからハッとする。
「あいにく、知らない殿方と会話しないように躾けられているの」
「ええ、君が良いところのお嬢さんだとはわかりますよ。女学校の学生さんなのだから」
たしかに名家や裕福な家の令嬢以外、高等女学校には通わない。
女学校の学生らしい姿が目立たないかと思ったが、これは失敗だったか、と琴音は思う。
彼は問う。
「探し物があるのでしょう?」
<あとがき>
新作です! 全然いつもと作風違いますが、よければ読んで☆☆☆を押していってね!
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