店に入ったとき何か意外な感じがしたが、それを咀嚼する前に店長から声をかけられたので、違和感は霧散してしまった。この日は常連客がいなかったので、店長に話しかけてみる。

「このお店って長いんですか? 最近まで気がつかなくて」

「今年で九年ですね。おかげさまで、なんとか続けられまして」

 それこそ意外だ。店長は七十代くらいに見えるかくしゃくとした老人で、店は昭和の香りがする純喫茶だ。何十年も地元に根差した店なのかと思っていた。

「退職して喫茶店を始めたんです、長年の憧れでして。ただのサラリーマンなのに、よく勤まったものですよ」

 それは確かに憧れだ。ちょっとうらやましい。

「店は居抜きなんですよ。前も喫茶店でしたが、私が入る前は何年も空いてたみたいです。古かったですが、あまりに理想の内装だったので、雰囲気を保ちたくてね」

 クリーム色の磨りガラスの照明、使いこまれた木のカウンター、店の奥に鎮座する金縁の大鏡、どれも古めかしいが、懐かしく温かい店を演出している。

「お店の名前、由来とかあるんですか?」

「ああ、私、名字が『つじうら』なんです。『うら』はさんずいの……『浦和』とか『檀ノ浦』の浦ですけどね」

 普通の由来だった。

「でも、かしこまった店ではない、会話が絶えない店になるといいな、という理由もありますね。そのおかげか、いつもどなたか来てくださるので、ありがたいです」

 店の内装を眺めるうちに、最初の違和感がわかった。

「……あの鏡は、前の店からあったものですか?」

「ええ。ちょうど入り口を映してくれるので、カウンターにいると助かりますよ」

 鏡は入り口の正面にあり、入り口のガラス戸越しにも見ることができる。ガラス戸の向こうから見たときは、鏡の中に数人の客がいて、カウンターに座っていた。今、カウンターに座っているのは、自分だけだ。

 口をつけられぬまま、アイスコーヒーの結露がテーブルに染みを作っていく。

 

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