第5話
「よ、よろしくお願いします」
それから数日後、私は加瀬くんちのカフェに居た。
土日は朝から家の掃除をするのが習慣だけど、それもあっという間に終わってしまう。あとは家にいたって暇なだけだ。
バイトの話はとんとん拍子に進んだ。加瀬くんが話を通してくれたので面接という面接もなく、電話で挨拶をして今日にいたる。
景子さんもマスターも快く私のことを迎え入れてくれて、むしろありがとうと感謝までされてしまった。ここでは、加瀬くんのお母さんのことは景子さん、お父さんのことはマスターと呼んでほしいと言われた。
「こんな地味なエプロンでごめんねえ」
白い長そでブラウスに黒のスカート。その上に黒い生地に白字でお店のロゴが入っているエプロンを腰に巻いた私を見て、景子さんが眉根を下げた。
「いえ……」
実際、地味ではないし、恐らくへりくだって言ったのだろうけど、気の利いた言葉が返せない自分が恨めしい。
「今どきのカフェは可愛らしい制服がたくさんあるものね~。だけど、汐里ちゃんが身に着けるとオシャレに見えるわ~」
「それ、遠回しにオシャレって言えって言ってるみたいだぞ」
「あらやだ、そんなつもりはないわよ」
「つうか、俺は似合ってるとか一度も言われたことねえけどな」
「だって似合ってないもの」
「はあ? 手伝ってやってんだろ? そこはお世辞でも──」
「オシャレです! 可愛いですっ! そして加瀬くんもすごい似合ってます!」
親子喧嘩が始まりそうになって慌てて口をはさむと、景子さんと加瀬くんは一瞬私の顔を見てから、もう一度顔を見合わせてぷっと吹きだした。
あ……良かった。
というか、そんなことで喧嘩なんて起こるわけない。なんでも言い合えるのは仲のいい証拠。やっぱり今日も、そんな加瀬家がうらやましい。
「今日はお客さんに水を出したり、テーブルを片付けてくれればいいから」
「うん」
そんな加瀬くんは、お世辞じゃなくてとてもここの制服が似合っていた。学校の制服とはまた違い、清潔感溢れる白と引き締まった黒との組み合わせが、より加瀬くんを大人っぽく映し。言われなければ高校生には見えない。
「わかんないことは何でも聞いて」
「ありがとう。よろしくお願いします」
生まれて初めてのバイト。緊張もしているけど、ワクワクの方が大きかった。
11時の開店とともにお客さんがやって来て、20分もすれば満席になってしまった。休日の昼間だからか若いお客さんが多い。
「3番テーブル、お水持って行ってくれる? それ終わったら、これをカウンターのお客さんに出して」
「はい」
「あっちのテーブル下げ終わったら、次の2名様案内して」
「はい」
とりあえず指示されたことを忠実にこなしていく。最低限のことしかやっていないのに、目が回る忙しさだった。最初はお水を出す手も震えていたけれど、それは回数を重ねるごとに慣れていき、
「ご注文がお決まりのころ、お伺いしますね」
そんなフレーズもすんなり出せるほどになった。
お昼のピークを過ぎてもお客さんは途切れることはない。人気のフルーツサンドはほぼすべてのテーブルで頼まれるし、家族3人だけで回すのは結構厳しいだろう。私も役に立てている。そう思えることが自信となり充足感に包まれていたころ。
カランコロン……。
ドアが開いて、ひとりの男性が入ってきた。
「いらっしゃいませ。ただいま満席なので、お名前を書いてお待ちいただけますか?」
けれど彼は小さく笑うとそのまま中へ入ってくる。
……あれ?
「遅いよ。すぐ着替えてきて。マジでパンクしそう」
「おっけ!」
彼は加瀬くんと二言三言会話すると、慣れたようにお店の奥へと入って行った。
「今のヤツ、俺のイトコ。ひとつ上の高3」
「あっ!」
思わず顔から火が出そうになる。恥ずかしい。私、お客さんだと思ってしまった。
そのとき、腰にエプロンを巻いた彼が再び姿を見せた。
イマドキの男子高生っていう言葉がぴったりで、アッシュグレーに染めたマッシュが小顔にとてもよく似合っている。
これは加瀬くんと争えるくらいモテそうだ。そう言えばどことなく雰囲気も加瀬くんに似ている。
美大を目指しているらしく、お店のメニュー画も彼が描いているんだとか。
若い女性のお客さんが、ふたりを見てひそひそと話しているのに気付く。みんな頬を赤らめて。
なるほど……。お客さんのお目当ては、映える美味しいフルーツサンドと、そしてウエイターのふたりってわけか。
「この子が郁人のクラスの子?」
「ああ」
そんな風に紹介された私は、自ら彼の前に歩み寄る。
「榎本汐里です。さっきはごめんなさい。私てっきり、お客さんかと思って……」
「いーのいーの、気にしないで! 今日初めてなんでしょ? それにしてはしっかりお店の人って感じだったよ」
笑ながら言われ、小さく頭を下げた。
「汐里ちゃんね、俺のことは
人懐っこい笑顔で笑うと八重歯が見えた。突然名前で呼べと言われ、面食らう。
「俺も加瀬だから、わけわかんなくなるでしょ? ここ全員加瀬だし、はははっ」
「あ、そっか……」
「てことで、仁ね」
そうは言われても、ちょっとすんなり呼べそうにない。男の子のことを名前で呼んだことなどないから。
「顔、赤い」
なぜか不機嫌そうに加瀬くんに言われ、
「えっ、そんなことないよ」
慌てて頬に手を当てる私。
「まあいいや。仁も来たことだし、榎本は休憩入って」
そしてそう言われ、私はお言葉に甘えて奥の部屋で休ませてもらうことになった。テーブルと椅子が二脚だけの小さいスペース。「こんなところでごめんね」と景子さんに謝られたけれど、休むには十分な場所だ。
「は~~」
4時間ぶりに椅子に座ったら、じわーっと足が熱くなって鉛がついたように重くなった。動いてるときは平気だったのに、座ったらもう立てないんじゃないかと思うくらい足に疲労を感じる。
立ち仕事がこんなにハードだなんて。世の中の立ち仕事を改めて尊敬した。けれど4時間も経ったと思えないほどあっという間だった。学校でもこのくらい早く時間が過ぎればいいのに。
「疲れたでしょ」
ここと厨房をつなぐ暖簾から顔を見せたのは景子さんで、フルーツサンドとホットココアを持ってきてくれた。
「これは賄いよ。食べてね」
「えっ、いいんですか?」
「当然よ。働いてくれてるんだもの」
そうは言ってもこっちはお給料をもらって働いているのに。目の前に出されたものは時給以上の値段はするはず。でも遠慮するのは返って失礼になると思い、いただくことにした。
「ありがとうございます。いただきます」
景子さんも向かいの椅子に座りコーヒーをすする。挽きたてのコーヒーは香りがとてもよく、コーヒーが苦手な私でも思わず飲んでみたくなった。
じっと見ていると、何? と目を丸くされる。
「すみませんっ。すごくおいしそうに飲むんで、つい……」
「実際美味しいからね、なんてねっ」
景子さんはお茶目に笑う。
「いえっ、当たり前ですよ」
「そうよね。一応これで生活してるんだもの」
肩をポキポキ鳴らす景子さんは豪快に笑った。それはマスターへの尊敬や深い愛情のようなものが感じられた。
フルーツサンドは今日も絶品で、疲れていただけあって食い意地が張っているかのようにあっという間にぺろりと平らげてしまった。クリームも甘すぎず、これならいくらでも食べれそう。人気なのは可愛い見た目だけじゃなく、マスターの腕がいいからだ。
「今日は、仁が午後からしか入れなかったらほんと助かっちゃった。ありがとう」
「いえ、想像以上に忙しくてびっくりしました」
「前はこんなんじゃなかったんだけどね。SNSっていうの? あれすごいね。家族経営でこじんまりやっていければいいと思ってたから、こんな風にたくさんのお客さんが来るなんて想像もしてなかったわよ」
まるで他人事みたいにケラケラ笑う景子さんがおかしくて、私もつられて笑った。本当に笑顔の素敵な人。景子さんを見ていたら、私まで自然と笑顔になってくる。
「今後、アルバイトの人を募集するんですか?」
そう訊ねれば、景子さんは笑いながら首を横に振った。
「今は物珍しさでお客さんがたくさん来てくれてるけど、そのうち落ち着くと思うからね。ほら、若い人の流行りって一瞬じゃない?」
そう言って肩をすくめる景子さんに私はうなずいた。今はSNSで毎日毎日誰かが新しいものを発信して、少し前に流行っていたものが思い出せないくらいあっという間に塗り返られてく。今は新しいものでも、すぐに古びてしまうのだ。
「こういうのも今だけだと思って、この忙しさを楽しむわ。ふふっ」
そう言ってカップの中のコーヒーを一気に飲み干すと「さー、働くわよ~」と腕まくりをして、暖簾の向こうに消えて行った。
私も休憩を終えると6時まで働いた。
混雑も落ち着き、代わりに常連さんが顔をのぞかせる。
「汐里ちゃんがいなかったらお店回らなかったわ」
「いやあ。本当にありがとうね。郁人の10人分くらい働いてくれたんじゃないかな」
景子さんとマスターに大げさなほど感謝をされて、恐縮してしまう。
「とんでもないです。早く慣れるようにもっと頑張ります!」
お水をこぼしたり、運ぶテーブルを間違えてしまったり、いろいろ失敗したのに。
「ほんとに汐里ちゃんバイト初めてなの? こんなに一生懸命働く子、今時貴重だよ。おじさん、絶対に手放しちゃ駄目だからな」
仁くんまで。
褒められることに慣れていないせいか、そこまで褒められるとくすぐったい。居心地が悪くなってしまったところに、
「悪かったな。役に立ってなくて」
ふてくされながらぼそっと言う加瀬くんがまた面白くて、みんなで笑った。
温かいみんなに見送られてカフェを出ると、一緒に加瀬くんも出てきた。
「送る」
「えっ? いいよ、遠いんだから」
「もう真っ暗なんだから危ないだろ。それに大して遠くないって」
「でもお店……」
「店は大丈夫。仁もいるし」
この間歩いてここまで来たから今日も歩いてきたけれど、思ったより距離があった。今度からは自転車にしよう。そうすれば加瀬くんにも気を使わせずに済む。
静かな夜の住宅街に、2人の足音が響く。
「今日の榎本、はつらつとしてて、いいなって思ったよ」
「そんなこと……」
教室での自分を知られているからだろうか。景子さんや仁くんに言われるのと違って、加瀬くんに言われるとなぜか恥ずかしい。たぶん顔は真っ赤なはず。暗くて良かった。
「でもね、すごく楽しかった。働くってすごいね。誰かの役に立つってこんなにも充足感を得られるんだって初めて知った。今ね、すごくすがすがしい気持ちなの」
素直な気持ちが口からこぼれていく。
働いている間の自分はなんだか誇らしかった。
疲れているはずなのに、いやな疲れではない。普段背中を丸めて生きている私でも、社会の中で必要とされているのだという自信と自覚がとても誇らしく、自然と背筋が伸びた。
加瀬くんに笑顔を向ければ、彼もまた私と同じ表情をしていた。
「そっか。なら良かった」
その表情に安心して、私は続ける。
「それに余計なことを考えてる時間もなかった。一日があっという間で、こんなに充実した時間を過ごしたのはいつぶりだろう。バイトを勧めてくれて本当にありがとう」
家のこと、学校のこと。普段は常に頭に付きまとっているそれらが、働いている間は一瞬たりとも浮かばなかった。ただ、必死に目の前のことに集中できた。ここでバイトをしていたら、卑屈になってる気持ちも少しづつ浄化されていくのではないかと期待してしまう。
「どういたしまして。うちのカフェが、榎本の居場所のひとつになってくれたらいいなって思ってる」
私の、居場所?
思わず足を止めた。加瀬くんも足を止める。
「居場所ってあればあるほどいいよな。全部同じ自分じゃなくてもいい。どこかひとつでも本当の自分でいられる場所があれば、それだけで生きていけるはずだから」
「……うん。本当にその通りだと思う」
親の監視下にある子供の世界なんてとても狭い。その中でいくつ自分の居場所を作れるか、そこがどれだけ居心地がいいかによって、呼吸の仕方は全くちがう。私は今日身をもって知った。
「明日もよろしく頼むな」
月明かりに照らされた加瀬くんの顔は、とても優しかった。
「うん、こちらこそお願いします」
たわいもない話をしていると、あっという間に家の前までついた。
「ありがとう」
「じゃ」
軽く手を上げると、加瀬くんはまた元来た道を戻って行った。
あっという間だと感じたのは、きっと加瀬くんと一緒の時間が楽しかったから。男の人が苦手だった私がこんな風に感じるなんてすごく不思議だ。
今まで男の人というだけで避けていたけれど、すべてがそういう人ではないのだと気づいた。分かろうともせずに避けていた私も悪かったのだと。あの頃みたいに子どもじゃないんだから、話せばわかり合えることだって多いのだと。加瀬くんはそれに気づかせてくれた。
見上げたアパートには明かりが灯っていた。いつも私が真っ暗な部屋に灯りをともす。こんな光景を見るのはいつぶりだろう。お母さんにバイトをすると言ったら反対はされず、ただ「無理しないように」とだけ言ってくれた。
錆付いた階段を上る私の足取りは、とても軽やかだった。
翌日は全身が筋肉痛で、どれだけ運動不足なのかを思い知らされた。
また同じようにお昼から働いてくたくたになったけれど、おかげで夜もよく眠れてすっきり起きられた。
学校へ行くのも最近は吐き気がするほど苦痛だったのに、それほど苦ではなくなった。
それはカフェという居場所のおかげ。学校と家を往復するだけの私に突然できた新たな場所。その存在が、私の心に希望をもたらしてくれたのだと思う。放課後になれば、この苦しみから解放されるのだから。
だから土日だけではなく、平日も仕事を入れてもらうようお願いした。
「おかえり~」
学校から直でカフェへ向かうと、景子さんの明るい声に出迎えられた。
思わず胸がいっぱいになる。学校から帰って来ておかえりなんて言葉をかけてもらえるのは一体いつが最後だっただろう。
「どうしたの?」
「ごめんなさいっ」
「謝らないでいいのよ」
「その……嬉しくて……」
わけを話すと、「そうだったの」と優しく肩をさすってくれて、またその優しさに涙があふれてしまった。
「は? なに泣かせてんだよ」
そのとき、電車で一足に先に帰っていた加瀬くんが店に入って来て驚いたように声を上げた。
「あらやだ。変なこと言わないでよ」
「そ、そうだよっ。これは違くて……っ!」
景子さんが優しく肩をさすってくれている様子を見て、誤解だったと分かった様子。唇を突き出しながらうなずく加瀬くんはちょぴり面白くなさそうだったけど、やっぱり今日もそれ以上聞いてくることはなかった。
今までは息をするのも苦しかったのに、ここにいると嘘みたいに呼吸が楽になる。私がこの家の娘だったら、もっと明るい子になれていたんだろうか。お喋りが好きで社交的で。
……そんなたられば。考えても仕方ないからやめよう。
「
「ああ。ウチのが友達と旅行行ってて食うもんないんだよ」
白髪交じりの神田さんはこの店の常連さんで、初めて加瀬くんにここへ連れてこられたときにもいたお客さん。近所に住んでいて、もう十数年の付き合いらしい。
「旦那置いて旅行とはいいご身分だこと」
そんなことを言いながら、心の中ではそう思っていなさそうなところが可愛い。
「そりゃあ奥さんはいいご身分ですから」
「言うねえ。加瀬くんも」
「神田さんほどじゃないっす。とりあえず、いつものでいいですか?」
「お願いするよ」
平日は6時を過ぎるとフルーツサンド目当ての客足も途絶え、代わりに常連のお客さんたちが顔を見せる。そうすると、マスターの弾き語りが始まったりアットホームな空気が流れる。
土日みたいに若いお客さんで賑わうのもいいけど、やっぱりこのお店にはこっちの雰囲気の方があっている気がした。
世間で言うイケオジとは、マスターみたいな人のことを指すのだろう。見るたびに違うハンチング帽をかぶっている。ハンチング帽を集めるのが趣味なのだと景子さんが教えてくれた。加瀬家を知れば知るほど、自分の育った環境との差を痛感した。
どうしてうちはこういう家庭じゃなかったのだろう。願ったって、手に入るものじゃないけれど。
「汐里ちゃん、新しい豆が入ったから飲んでみる?」
マスターが豆の袋を掲げながら声を掛けてくる。
「榎本はコーヒー飲めないって」
「いえっ、いただきます!」
加瀬くんの声をさえぎって、勢いよく言う。
「無理すんなよ」
「無理してないよ!」
私もコーヒーを飲んでみたいと思ったんだ。景子さんが美味しそうに飲むマスターのコーヒーはどんな味がするんだろう。単純に、それを味わってみたいと思ったのだ。
「ブラックで飲めるの?」
「素材の味を味わいたいから」
怪訝そうに聞いてくる加瀬くんに、強がっていえば、
「ははっ、無理しなくていいんだぞ」
マスターに笑われながらカップに口をつけると口の中に苦みがブワッと広がった。やっぱり私にコーヒーはまだ早いかもしれない。
「無理すんなって。ほら砂糖とミルク」
加瀬くんが笑いながら差し出してくれる。でも、私にもこの苦さが美味しく感じる日が来るといいなと思った。
◇◇◇
「汐里ちゃん、コーヒーお代わりちょうだい」
「はい」
神田さんに指名された榎本は、すぐさま父さんにコーヒーのお代わりをオーダーした。そんな姿を目で追ってから、神田さんに近寄る。
「まったく俺に頼まなくなりましたね」
軽く嫌味を飛ばすとドヤ顔で言われた。
「当たり前だろ。何が楽しくて郁人に頼むんだ」
チッ。
舌打ちした俺を、お代わりのコーヒーを持ってきた榎本が不思議そうに見て小さく笑った。
榎本はよく気づく。人見知りなのかと思っていたがそうでもなく、あっという間に常連さんたちの間でも人気となった。今では、この店での俺の存在が危ぶまれるほどに。
最近、榎本は良く笑うようになった。といってもこの店でだけ、だけど。
実際あんな風に笑えるのかと正直驚いた。学校での榎本は、周りの顔色を伺いながら過ごしているように見えるし、本人もその自覚はあるんだろう。
だからこそあの日、繁華街での榎本を見て心底驚いた。そういうこととは無縁のタイプだと思っていたから。俺が現れずとも、結局回避できたかもしれないが、結果的に俺が出くわして良かったのだと思う。
*
「今日汐里ちゃんは?」
テーブルを拭いていると、店に入ってくるなり仁が聞いてきた。
「休み」
今日は榎本は来ない日だ。土日だけで始めたはずだったが、平日もシフトに入るようになった。正直、俺も毎日のように手伝わされていたから助かっている。なによりここを居場所としてくれたようで俺も安心している。
「そっかー、残念。いないと華やかさに欠けるよなー」
仁にそう言わせるくらい榎本がいるのとでは店の雰囲気が違う。今までこの店がどんな雰囲気だったか思い出せないくらいに。
「榎本とずいぶん仲よくなったんだな」
仁と榎本は「仁くん」「汐里ちゃん」と名前で呼び合っているし、俺より距離が近いと感じる。俺はクラスメイトという立場上ある程度の距離感は保っているつもりだ。
「やきもち?」
「は? バカそんなんじゃねえよ」
俺の知り合いなのに俺よりも親しくなっていれば、面白くないのは普通だろう。たまに、俺はのけ者なんじゃないかと思う時があるくらいだ。そんな俺を見透かした仁は、可笑しそうに笑った。
「好きなら早く告りなよ」
だからそういうんじゃないのに。
「俺は、そういうのはいい」
そもそも誰かを好きになるとか、つき合うとか、俺には考えられないのだから。
台拭きの面を丁寧に折り返す。
そんな俺に届いた声は、さっきまでの茶化しを含んだものではなく柔らかかった。
「郁人、人のこともいいけど、もっと自分も大切にしろよ」
「……」
無言で返したが、仁の言いたいことは痛いほど分かってる。
榎本が笑ってくれることで、自分の罪が少しでも軽くなるような気になっている。そんな俺は卑怯なのかもしれない。
「もたもたしてると、俺が奪っちゃうよ~」
仁が再び茶化すように言う。その言い方からして、仁が本気で榎本に気があるわけではなさそうでホッとする。
……ってなんで俺、今ホッとしたんだよ。
「好きにすれば」
俺はさっきよりもテーブルを拭く手に力を込めた。
もっとも、俺にはそんな資格はないんだ。幸せになったらいけない。
そう、自戒を込めるように。
◇◇◇
「汐里ちゃんが来てくれてから、この店に来る楽しみが増えたなあ」
「神田さん、それ問題発言っス」
「だってよお、郁人と仁じゃあ、なあ?」
ご機嫌な神田さんが、隣の常連さんに絡んでいく。
「どういう意味ですかあ?」
加瀬くんがそんな神田さんに面白おかしく詰め寄って、どっと沸くこの場。
私も気づけば笑っていた。お世辞なのは分かってる。だけど自分の存在を認めてもらえた気がして、胸の奥が熱くなるような感覚を覚えた。
自分に価値などないと思って生きて来た私が、誰かにとって必要な存在になれた気がして。やっぱりここは私の居場所だと胸を張っていいんだ。
そんなある日曜日。いつものように賑わうランチタイムを忙しくこなしていたとき。
「え?」
注文の品を届けたテーブルで、私の顔を見て驚く瞳に同じような反応を示してしまった。
思わず目を見張る。そのテーブルにいたのは緒方さんだったのだ。まさかこんなところで会うとは思わず、わかりやすくうろたえてしまう。
「なに、友達?」
向かいに座る茶色い髪の友達が緒方さんに尋ねる。ボーイッシュな雰囲気は緒方さんとよく似ている。緒方さんらしい友達という印象。紗英やすみれとは全然違う。
そんなことを考えていると、信じられないような言葉が聞こえた。
「クラスメイト」
緒方さんは迷いなくそう答えたのだ。
氷を飲んだかのように、体の中がヒヤリと冷たくなる。
クラスメイトで間違っていない。でも彼女は「友達?」と問いかけた。緒方さんにとって私は、わざわざ別の答えを用意するくらい友達だと認識されていないらしい。
手のひらにピリピリとした痺れを感じ、それは徐々に体中を侵食していく。友達だと答えてくれると疑っていなかった。日頃から傷つくものかと虚勢を張っていたけれど、意図せず訪れたショックに体は正直に反応した。こんなことで傷ついている自分が惨めだった。
「ふーん」
爆弾を投げかけた張本人は、興味なさげに相槌を打って私から視線を逸らした。けれど緒方さんはまだ私をじっと見ている。手のひらに尋常じゃない汗が浮かぶ。
「私、近所でたまにこの店に来るの」
「そ、そうだったんだ……」
「いつからここでバイトしてんの?」
悪気のなさそうな強い口調はいつもの緒方さんと変わらない。けれど、いまの私には針で刺されているかのように痛くてたまらない。
「こ、今月から……」
「へー、加瀬の家だって知ってて?」
「それは……」
次から次へと飛んでくる質問。
まさかこんな状況に陥るとは考えてもいなくて、どう答えたらいいのか困ってしまう。加瀬くんからバイトを薦められたなどと言えば、じゃあどうしてと話を掘り下げられることは容易に想像できた。詳しく話せるわけがない。
どうやって切り抜けようか困っていた時、別テーブルから声がかかった。
「注文お願いします」
救世主のようなその声に、私は逃げるように緒方さんに軽く会釈だけしてその場を離れた。
緒方さんは、食事を終えると私に声を掛けることなく店を後にした。
「はあ……」
その瞬間肩の力は抜けたけれど、どっと疲労が襲ってきた。ずっと緊張感を保っていたせいだ。
「どうした? なんかあった?」
「あっ、大丈夫です」
ふいに仁くんから声を掛けられて、私は笑顔を張り付けて顔をあげた。余計なことを言って心配をかけちゃいけない。
「そう? ならいいけど。無理だけはしないでね」
それ以上深く聞いてくることなく、仁くんは自分の持ち場に戻った。
ここは本当に過ごしやすい。加瀬くんも仁くんも、心の中にずかずか踏み込むようなことはしないから。それがとっても心地いい。
溺れそうだった私が、唯一穏やかに呼吸ができるところ。
ずっとずっと、ここを私の居場所にしたいと思っていたのに。
──そんな願いは、あっけなく崩れてしまった。
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