雨降るガリシア(1)

 テラス席でカフェコンレチェを飲みながらカミーノをぼんやりと眺めていると、何人もの巡礼者が目の前を通り過ぎていく。知った顔もいれば知らない顔もいるけれど、一人ひとりの姿を眺めているのには何とも言えない楽しさがある。顔見知りは僕に気づくと手を振ってくれる。


 隣のテーブルで朝食をとっていたカップルが立ち上がり、去り際に男性が僕に声を掛けた。


「君、巡礼なんだろ? 実は僕も日曜日にカミーノを歩き終えたところなんだ」


 彼の目は少し誇らしげで、話したくてたまらないという雰囲気が伝わってくる。自分の経験を共有したいのだ。


「本当? どこから始めたの?」


「サリアさ」


 徒歩での巡礼の場合、達成条件は最低100キロを歩くこと。フランス人の道でいえば、サンティアゴ・デ・コンポステーラに最も近い町で、その条件を満たすのがサリアだ。そのため、そこを出発点とする巡礼者はとても多いらしい。この男性は僕に、サリアからサンティアゴまでの道には景色の美しい場所がたくさんあると教えてくれた。


「それじゃあ、ブエン・カミーノ!」


「ありがとう! よい一日を!」


 彼らの後ろ姿を見送ってから、僕も立ち上がってリュックを背負った。


 歩き始めるとすぐにアスファルトの舗装路が途切れ、山道に入った。カミーノではほとんど見かけない、土を踏み固めただけの本物の自然道だ。道の両側は高くそびえる樹木に囲まれていて、枝葉の重なりが日光を遮っている。足元で黒っぽいミツバチが紫色のチコリーの花びらにしがみつき、蜜を集めている。その様子を見ながらふと、チコリーの蜂蜜っていったいどんな味がするんだろう、と思った。


 このあたりが緑にあふれているのは、水が豊富なのも関係しているのかもしれない。小川が近くを流れているし、休憩エリアでは栗の木が影を落としていた。食べ物つながりで思い返すと、道沿いにキイチゴやブルーベリーの実をちらほらと見かけた。さっき通り過ぎた小さな販売所では、地元の野菜や果物が箱いっぱいに積まれていた。ラ・フランス、リンゴ、プラム、スイカ、トマト、オニオン。この地域が農作物の宝庫であることがひと目で分かる。


 この先、標高1300メートルのオ・セブレイロまでは登り坂がずっと続いている。高低差は約600メートル。水平距離で8キロあるので、決して急勾配ではないものの、歩くのが楽な道とも言えない。


 途中、かなりの速さで僕を追い越していく男がいて、チラリと顔を見ると2日前にポンフェラーダで会った3人組のひとりだった。彼もこっちを覚えていて、僕が何も言い出さないうちに「今日はひとりさ。あとの二人はビジャフランカにいるよ」と話しかけてきた。


「この道、美しいよね」


 僕がそう言うと、彼は歩調を緩めることもなく、「最高だよ!」と短く返す。そして、またどんどんと坂を登っていった。彼の背中が遠ざかるのを目で追いながら、よくあのスピードで歩けるな、と思わず感心する。僕はすでに汗だくで、Tシャツが絞れそうなほど。こんなに汗をかいたのは、炎天下のメセタを歩いた時以来、久しぶりだ。今日は20キロの行程にしておいて正解だった。


 坂を登り続けるうちに州境をまたぎ、いよいよガリシア州に入った。サンティアゴ・デ・コンポステーラ――巡礼の終着点が見えてきた。


 ガリシア州の道標はこれまでと違って石碑で、しかも、まるで巡礼達成のカウントダウンのように、サンティアゴまでの距離が10メートル単位の細かさで刻まれている。例えば「119,852km」といった感じ。ちなみにスペインでは小数点を表すのに「.」ではなく「,」を使う。「119,852km」は決して11万9千キロという意味ではない。


 ガリシア州に足を踏み入れてからオ・セブレイロまではわりと近かった。


『星の巡礼』に登場するオ・セブレイロは、霧に包まれた神秘的な場所として描かれていた。現実と非現実の狭間にあるような、不思議な雰囲気を醸し出している村。


 でも、実際は完全に観光地で、村の入り口から路上駐車の長い列ができていた(なぜか駐車場というものは存在しないらしい)。通りには土産物屋が軒を連ね、店先には「オ・セブレイロ」とプリントされたおもちゃの剣や弓、さらには巡礼用の杖や帆立貝がぎっしりと並んでいる。いったい、ここまで来て誰が巡礼用の杖を買うのか……。商魂のたくましさに思わず感心する。現実と非現実の狭間どころか、完全に現実的な村だった。


 僕が予約したアルベルゲはオ・セブレイロからさらに3キロ先なのだけど、宿の周辺にはレストランもバルもカフェもないらしい。そこで、オ・セブレイロでかなり早めの夕飯を食べておくことにした。


 さすがに観光地だけあって、まだ午後3時前という微妙な時間帯にもかかわらず、巡礼定食を提供している店がある。名前に惹かれてガリシア牛のステーキを注文したら、これが驚くほどジューシーで大正解。そして、赤ワインが肉料理にとてもよく合う。このステーキとワインが非現実じゃなくて本当によかった。


 食事を終えて、宿には午後4時に到着した。予約しておいた旨を受付で伝える。


「じゃあ、パスポートを見せてもらえる?」


 すっかりお馴染みの、いつもと同じやり取り。財布兼パスポート入れにしているジップケースからパスポートを取り出そうとすると、無い。パスポートが無い!


 ひょっとして別の場所に仕舞ったのかもと思い、ウエストポーチとサコッシュの中身を全て椅子の上にぶちまけて確かめたのに、パスポートが見当たらない。頭がサーッと真っ白になった。


 どこで失くしたんだろう。昨夜のホテル? それとも、カミーノ道中?


 こういう場合、どうすればいいんだっけ? ええと、まずは大使館に連絡か。パスポートの再発行用に写真が必要かも。でも、大使館なんて大都市にしかないはず。マドリード? サンティアゴ? だったら、これでサンティアゴ巡礼も終わりか……。

 巡礼打ち切り。それが何より心に重くのしかかった。


 受付のお姉さんが、荷物をぶちまけたまま固まっている僕をじっと見つめている。


 大きく深呼吸すると、冷静さが少し戻ってきた。まずは、昨夜のホテルにパスポートの有無を問い合せてみよう。ホテル名と電話番号をお姉さんに伝えて、問い合わせをお願いした。もしホテルじゃなかったら、カミーノの道中のどこかということになるけれど、それだったらもうどうしようもない。万事休すだ。ホテルであってくれ!


 スマホを耳に当てたお姉さんが、何か話している。そして、永遠にも感じられる数秒の沈黙。


「ホテルにあるそうよ」


 全身の力が抜け、床にへたり込みそうになる。よかった、本当に助かった。


 ホテル側が明日の宿泊先にパスポートを届けてくれるというので、連絡先を伝えた。カミーノでは荷物配送のサービスが充実していて、事前に依頼すれば、最小限の荷物だけ持って歩き、着替えや日用品を宿から宿に送り届けてくれる。今回、僕のパスポートも、そういったサービスを利用して届けてくれるのだろう。


 一旦はこれで良しと思ったけれど、パスポートが手元にないのはやっぱり落ち着かない。


 シャワーを浴びて、考えが変わった。幸い、今日は20キロしか歩いてない。つまり、昨夜のホテルはそう遠くないわけだ。タクシーで往復すれば、それほど時間もかからないはず。よし、取りに行こう。


 受付に戻り、さっきのお姉さんにタクシーを手配してほしいと伝えた。


「タクシーの運転手さんにパスポートを取ってきてもらうの?」


「いや、僕も一緒に行く。ホテルで直接パスポートを受け取ってから、ここに戻ってくる」


「オーケー、じゃあタクシーを呼ぶわね」


 タクシーは10分足らずでアルベルゲの玄関口に到着した。話はすべて通っているようで、僕が行き先も言わないうちにタクシーが走り出した。でも、運転手はちょっと不満そうだ。


「俺がホテルまでパスポートを取りに行って、それからここへ届けたらいいだろう。なんでお前さんもわざわざホテルまで行くんだ?」


 ひょっとして僕が運転手を信用していないと思われたのかもしれない。でも、こんな状況なら誰でも、一刻も早く自分の手元にパスポートを取り戻したいのではないだろうか。まあ、普通はそんな経験なんてないはずだし、僕の気持ちが理解できなくても仕方はない。


「今までにパスポートをなくしたことなんてないから、どうにも落ち着かないんだ」


 僕は理由になっていないような理由を答えた。運転手は「まあ、好きにしな」という感じで肩をすくめ、スピードを上げた。


 それにしても車は速い。たぶん自動車道はカミーノより遠回りなのだが、それでもホテルまで30分もかからない。僕は一日がかりでこの距離を歩いてきたというのに。我ながら少し拍子抜けした。


 タクシーがホテルのエントランス前に付けると、運転手はエンジンをかけたまま待機し、僕は急いで受付へ向かった。


 受付のおじさんは少し気まずそうに、「すまんすまん、私のミスだ」と言いながらパスポートを手渡してくれた。たぶん、チェックインの際にパスポートを返し忘れたのだ。


 でも、そんなことはどうでもいい。パスポートが無事に戻ってきたのだ。これでまた巡礼が続けられる。それが何よりも嬉しかった。


 再びタクシーに乗り込み、「これで今夜はよく眠れそうだよ」と言うと、運転手も笑ってくれた。

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