継がれし力、狙われし香
「あなたが探しておられるのは、この『魂の記憶』ですね」
男は、丁寧な手つきで包みを解いた。そこには、異様な艶を放つ香木
蘭奢待の一種が持つ、かすかに甘くも重たい、忘れがたい香りが宿っていた。
翠薫は距離を保ちつつも、その香に心を揺さぶられていた。
抗えぬ香の誘惑。けれど、それ以上に──
(おかしい……なぜ、この男から“香”がしないの?)
翠薫は、香を読む力を使って男の真の香を探った。
しかし、どれだけ集中しても、相手からは一切の『気配』が感じ取れない。
今まで感じ取れなかった者など、ただの一人もいなかった。
それなのに、この男からは何も香らない。
こんなことは、かつて一度もなかった。
「白蘭からお聞きになったでしょう? 交換条件は……あなたの血です」
男は柔らかく言いながら、ひとつの小瓶を取り出して見せた。
「数滴で構いません。あなたの力の源──それを少し分けていただければ」
翠薫は、警戒心を隠しながら問い返した。
「なぜ、私の血なのです?」
「香木は……記憶を受け取る器を求めるのです。あなたの香読の力こそが、それを活かせる唯一の鍵になる」
男の言葉は、妙に理にかなっていた。だが、翠薫の胸には不吉な予感が広がる。
そして──
(この香……この感覚……まさか……)
ふと、男のそばから、微かに『杏香』の香りが立ち昇った気がした。
(なぜ……? なぜ、おばさまの香が……)
動揺したその一瞬。男が素早く動いた。
「残念ですが……これで、終わりにさせていただきます」
翠薫の目前に立ちはだかり、片腕で腰を引き寄せ、もう片方の手で視界を覆い隠すようにして――
彼女の首を、さらけ出させた。
襲われた。
反射的に、翠薫は胸元の匂い袋を強く握りしめた。
月と星の刺繍がほどこされた、小さな袋。
それが、護りの印だった。
袋の奥に隠されていたのは、春生が密かに忍ばせた『形代』
翠薫の危機に呼応するように、形代は瞬時に変化し――
ぶわり、と周りの空気が裂けるように歪み、巨大な鬼の姿が現れた。
岩のようにどっしりとした形代の鬼は、翠薫を覆い隠すように立ちはだかった。
「……なんだこれは!?」
男は驚き、香木を落としてしまった。
そのとき、木陰で様子を見ていた白蘭が動いた。
三又の尾を揺らしながら、『魂の記憶』を咥え、木の上へ跳び去る。
「待てっ!」
男が叫び、白蘭を追おうとするが──
神域の守護を受けた三又猫に追いつけるはずもなかった。
その隙に、鬼は翠薫を抱え、森の奥へと走り出す。
春生が異変を察知し、陰陽寮から駆け出るのと同時だった。
男は立ち尽くした。
「……まただ。あと少し……あと少しで手に入るはずだったのに」
かつては、杏香からその力を奪おうとした。だが、間に合わなかった。
彼女が力を翠薫へと託したのだった。
(翠薫には継承者がいない……)
それを知った彼は、今度こそ、その力を自らのものにしようとしたのだ。
「……またしても。あと少しのところで、逃した……」
「『魂の記憶』まで、奪い取られるとは……口惜しい。誠に、口惜しい……」
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