永劫の香、刻まれし罪

叔母の杏香(きょうか)は、一族の衰退を何よりも憂いていた

月香の里には、古くから厳しい掟が伝えられてきた。

神に仕える巫女は、清廉潔白な未婚の女性でなければならず、

その務めは代々、一族の長女に課せられてきた。

一方、次女は巫女を支え、その血を未来へとつなぐ者――

すなわち「次の巫女候補を産む者」として育てられるのが定めであった。

翠薫の姉の彩香は、次期巫女として神託の修行に励んでいたが、ある日忽然と姿を消す。

跡を継ぐはずだった者の不在に、月香一族は大きく揺れた。

だが、信仰の火を絶やすことはできない。

苦渋の決断の末、杏香は本来『産む側』に立つべき次女・翠薫を、異例として巫女に迎え入れる道を選ぶ。

その決断の裏には、深い葛藤があった。

姉の彩香が消えて、次女の翠薫を巫女とするか、分家の娘を巫女とするか。

翠薫が巫女となると「産む者」が一族から絶えてしまう可能性が出てしまう。

(分家から『産む者』だす案もあるが、それはなんとしても阻止したい)

このままでは、分家の思惑のままになってしまって、月香の血は直系から外れてしまう事にもなる。

巫女の系譜も、信仰そのものも、時の流れのなかに消えてゆく。

何よりも、未婚であることを絶対とする『巫女の掟』が、時代にそぐわぬ足枷となり、一族を確実に追い詰めていた。


「このままでは終わる」


杏香はそう確信していた。

そして――ある決意を胸に刻む。

それは、自らが『不老不死』の力を得ること。

未来永劫、最後の巫女として生き続けることができれば、

もはや血筋に頼る必要も、誰かを『産む役目』に縛りつける必要もない。

巫女の掟はその意味を失い、月香の信仰は新たな形で保たれるはずだと信じた。

その果てに、杏香が追い求めたのが――


禁香『永劫の刻印香』


巫女でさえ語ることを許されぬその香の存在を、杏香は生涯を懸けて追い始めいた。

巫女が結界の外に出ることは、本来、固く禁じられている。

それでも杏香は、ある香木をどうしても手に入れたくて、密かに神社を抜け出していた。

それは、「魂の記憶」と言われる蘭奢待(らんじゃたい)の一種。

伝承によれば、その香木は不老不死に近づけると言われている。

永劫の刻印香に使うとされている香木。それは、一族に代々伝わる禁香中の禁香。

神の記憶に通じ、魂に刻み込まれる香。

その存在と調合の仕方は、巫女となった者だけに口訣で伝えられ、記録も残されない。


「なんとしても探し出して、未来永劫、月香の信仰は私が守り抜いてみせるさかい。翠薫はなんも心配せんでええやしね。」


そう笑った杏香の目は、どこか寂しげだった。

だが、分家の者たちが結界に入れぬとはいえ、杏香が留守であることが続けば、勘づかれる恐れがある。

そこで、彼女は一計を案じた。

陰陽道の術のひとつ、『形代』を使い、自らの代わりとなる姿を境内に残したのだ。

術の安定のためには、春生と翠薫の協力が欠かせなかった。

ふたりに真意を明かし、秘密を共有することとなった。

杏香はまた、春生と翠薫の将来を案じてもいた。

幼い頃から寄り添い、許嫁として育てられてきた二人が、宿命に引き裂かれるのは不憫だった。


「うちはね、生まれたときから『ひとりで生きるんや』って仕込まれてきたから、だいじょうぶ。けどあの子らは……あの子らは、そうやないんよ…」


だからこそ、『魂の記憶』を手に入れ、禁香を完成させることが、ただの野心だけでなく――ふたりの未来を繋ぐ、ただひとつの手立てだった。


***


やがて時は流れ、春生は十七歳となり、陰陽寮への入寮が決まった。

そうなれば、術の支えを失い、形代による誤魔化しは続けられなくなる。

杏香は決断を迫られた。

そして、最後の手段として、猫魈(ねこしょう)へと進化した白蘭に、自分の姿になることを頼んだ。

強い想念と結界の加護により、杏香の姿を模した女性の姿で、結界内に留まることができた。


それから間もなく――

杏香は、姿を消した。

結界を越え、ただ一人、京の外れへと向かった。

目指すは、「魂の記憶」を帯びたという、ある異国の男の所へ。


希少な香木を蒐集し、異国の術にも通じているという噂を聞いたときから、

杏香の胸には、ひとつの焦燥が灯っていた。

──その香さえ手に入れば。

永劫の刻印香が完成すれば、翠薫も春生も、もう運命に縛られずに済む。

自分のように、誰かを諦めずに済む。

もはや信仰ではなかった。

それは、願いという名の執念だった。


杏香は、男の館に忍び入り、

寝所の奥、香木の保管棚から、目当ての香を盗もうとした。

だが――気づかれた。

香木を盗もうとした指先に、何かが触れた瞬間、空気が凍った。

男は声ひとつ発せず、気配ひとつ変えず、ただ鋭い気を放った。

杏香の術も香も何も通じなかった。

その場で命を奪われた。


***


翌朝。

翠薫はいつも通り、杏香の香炉に香をくべようとしていた。

だが、その香りが――変わっていた。

沈香と白檀のやさしい残り香の中に、

焦げつくような鉄の匂い。

ほんの微かな変調が、翠薫の五感を刺した。


「……っ」


頭が揺れる。

胸がざわつく。

香炉の前に膝をつき、そのまま意識を失った。




「――ねぇさま!」


白蘭が駆け寄り、倒れた翠薫を支える。

香の変化を感じ取ったその瞳には、すでに緊張の光が宿っていた。


「白蘭……おばさまの、香が……違うの」


翠薫はかすれ声で言った。


「いつもと違うの…いつものおばさまの香じゃないの…あぁ…どうしたら…」


白蘭は、無言でうなずいた。

問い返すこともなく、その場を離れる。


「お願い、白蘭。おばさまの香を、辿って」


風が一筋、神社を抜けていった。

翠薫は、すぐに春生を呼び寄せていた。


「……また形代を頼める?」


春生は、黙って頷いた。

あの頃と同じように、杏香の不在を悟られぬよう、術を施す必要があった。


「まだ間に合う。香の印も、残ってる」


春生はそう言って、すぐに術具を並べ始めた。


***


その頃、白蘭はすでに香の残響を追っていた。

京のはずれ、異国の渡来者が住んでいると言われる館。

その奥に、冷たく倒れている杏香がいた。

胸には――太い杭。

しかも、首筋にはふたつの細い刺し痕があった。

その位置は、脈の流れの上。まるで、何かに吸われたかのように。

白蘭は何も言わず、その身体を静かに鼻先で抱き上げて、自分の背中に乗せて

翠薫が待つ月香神社へ急いで帰った


白蘭が運んできてくれた、叔母の亡骸を見て言葉を失った翠薫はその場で座り込んでしまった…

ここではなにもできないと悟った春生は、陰陽寮へと杏香を連れて行くことを翠薫に伝えた。

陰陽寮の奥、春生が術を施しながら、口を開く。


「……これは、異国の妖魔の痕跡だ」


「妖魔……?」


翠薫の声が震える。


「杭の材質も、呪術痕も、首の傷も、内地のものじゃない。

香に刻まれた痕跡――たぶん、相手は人ではないかもしれない」


「人では、ない……?」


「姿は人でも、魂の性質が違う。異国の香と術をまとっていた。

杏香さまは、『魂の記憶』を持つものに近づきすぎた。」


これは――禁忌に触れた報いだったのか。

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