白蘭、半人化
夜が深まるにつれ、京の空には月が冴え冴えと昇っていた。
春とはいえ、夜の風は肌をかすめるたび、
思わず身震いするほどの冷たさが、町の屋根をすり抜けていく。
その風に乗って、ひとひらの香が、ふわりと舞った。
静まり返った翠香堂の奥座敷。蒼真はまだ眠りの底にいた。
傍らで膝をそろえたまま、翠薫は香炉を見つめている。
けれどそのとき、庭の向こうに、ふと気配が現れた。
──踏みしめる音。
人の足音、ではない。猫のように軽やかで、それでいてどこか、重たさを帯びた音だった。
すっと、影が現れる。三つに分かれた尾が、夜気をはらんで揺れていた。
白蘭だった。猫魈の姿のまま、闇の中から現れたその白い影は、庭の敷石をなめるように進み、障子の前でぴたりと止まる。
「ねぇさま」
低く、震えるような声。
翠薫が顔を上げる。障子がすう、と音もなく開いた。
そこに立っていたのは、白蘭だった──人の姿で。
白銀の髪に、瑠璃色の瞳。薄桃の小袖をまとい、裾には桜の刺繍が淡くきらめいていた。
だがその目は、どこか虚ろで、現実を見ていないようでもあった。
「……白蘭……?」
翠薫の声が震える。目の前の光景が、現実とは思えなかった。
「香が……呼んだの。にぃさまの気配が、香の奥に残ってる……私……」
白蘭の言葉は断片的だった。声に宿るのは、懐かしさ、痛み、そして渇望。
香が彼女の記憶を呼び覚ました。香炉に封じられた想いが、白蘭の姿を変えたのだ。
だが、変化はそれだけではない。
白蘭のまとう気配は、かつてよりも強く、鋭く、そして不安定だった。
人の姿を保ちながらも、その輪郭は淡くゆらいでいる。
「……完全に、戻ったの?……」
翠薫は一歩、近づこうとした。だが白蘭は、その場で一瞬、身を引いた。
「だめ……今、近づかないで。まだ……定まってないの。香のせいで、記憶が混じってる。にぃさまのことも……夢のように浮かんで、でも……」
言葉の最後は、消えるように途切れた。
夜の香が、再び、庭に流れ込んでいく。
そのなかで、白蘭の姿は淡く光を放っていた。妖と人との狭間に立つ、ひとつの存在。
その形を保つには、まだ不安定すぎる。
だが――
その瞳だけは、はっきりと翠薫を見ていた。
まるで、過去と今とをつなぐかすかな光のように。
静寂が、ふたりのあいだを包む。
そして、月が雲のあいだから顔を出した。
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