匂い袋ひとつ、迷いごとひとつ


「ねぇ、姉様。最近、蒼真さんお見かけしませんね?」

と、小菊がにやにやと笑いながら顔を覗き込んでくる。

「そう? そんなことないと思うけど。この間も来てくださったわよ。珍しい香りを持ってきてくださって、とても助かったの」

「ええ〜、会いたかったなぁ。異国のお話とか、珍しい香りのお話、もっと聞きたかったのに〜」

「またすぐに来ますって、おっしゃってたから。楽しみにしておきましょう」

「姉様は……違う意味で楽しみにしてるんちゃいます?」

「小菊? なにを言ってるのか、さっぱりわからないわ」

と、誤魔化すように手を動かす。小菊はくすくす笑っていた。

そのとき、

「すみません……」

と、戸口から遠慮がちに声がかかった。

「いらっしゃいませ。本日はどうされましたか?」

匂い袋の店「翠香堂」には珍しい、男性の客だった。

「ここで……よう眠れる香りがあるって、聞いたんやけど……」

場違いに思えたのか、男は落ち着かない様子で声も小さかった。

ほのかに、香に乗って不安の気配が漂っている。

(初めてで緊張しておられるのかしら?)

翠薫は、その香の奥を読み取れずにいた。

「よろしければ別棟の香室で、もう少し詳しくお話を伺うこともできますが」

「いや、そこまで大げさにせんでも……何か、適当に選んでもろたら」

と、男は近くにあった匂い袋を一つ手に取って、そっと香りをかいだ。

「でしたら、こちらはいかがでしょうか?」

翠薫は、黒地に控えめな模様の袋を手渡す。男性の装いにも合う、落ち着いた意匠だ。

「ああ……これなら俺でも持てそうやな。これにするか」

「では、中の香を調合いたします。お困りごとは、眠れぬことだけでよろしかったですか?」

「……まあ、とりあえずは、それだけやな」

言葉の端には、他にも何かを抱えている気配があった。

だが男の香りには、「弱みを見せたくない」という屈託が重なっていた。

翠薫は無理に聞き出さず、いつか本当に困った時に、また訪れてもらえるようにと気遣った。

「かしこまりました。すぐにご用意いたしますので、少しだけお待ちくださいね」

そう言って、調合室へと入っていった。


――


「翠薫さんのお見立て、すごいんですよ」

小菊が笑顔で言った。

「そうなんか。……女房に聞いて来たけど、男が来るとこちゃうやろ、ここ」

「そんなことないですよ。大店の旦那さんなんかも、よくお忍びで来られますし」

「え、大店の?」

「匂い袋って言うだけで、ちょっと恥ずかしいみたいで。決まった時間に裏から来られたりします」

「……でもそれ、常連やからやろ」

「姉さ……いや、店主は、お客さんを選んだりはしませんよ。困ってる方に、ちゃんと向き合ってくれます」

「……わしみたいな、ちっぽけな悩みでもか?」

「もちろんです」

翠薫の声が背後からして、男が振り返ると、ちょうど調合を終えた匂い袋が手渡された。

「こちらです。よろしければ、香りを確かめてください」

袋からほのかに立ちのぼる香を嗅いだ瞬間、男の眉が緩んだ。

「……なんやこれ。ふわっとして、肩の力が抜けていく感じやな」

「少し、肩に力が入りすぎておられたようでしたので。緊張をほぐす香を調えております」

男は、袋を見つめながら小さく尋ねた。

「……誰にでも、こうして調合してくれるんか?」

「ええ。困っている方をお助けするのが、私の務めです」

翠薫は、そう答える自分の声に、巫女としての面影が残っていることを感じていた。

「じゃあ……ちょっとだけ、お願いしてもええか」


――


少しの血を分けてもらい、「真の香」を読む。

男は大工。真面目で人当たりもよく、後輩の育成も任されていた。

だが、ある若手が自分よりも腕がよいと気づいた時、不安が芽生えた。

手を抜くべきか、しっかり仕込むべきか。

迷いの中で教えたところ、若手が怪我をした。

自分のせいかもしれない――そんな悔恨が、香ににじんでいた。

(真面目で優しいからこそ、悩んでしまわれたのね)


沈香に白檀をほんの少し加えた香りが、香室にやさしく広がる。

「香というものは、不思議なものですのよ」

翠薫の声は、香と同じように、やわらかく、芯があった。

「同じ調合でも、湿り気や季節で香りが変わるように。人が手で紡ぐ仕事も、教えた通りにはいかないもの」

男は黙って、うなずいた。

「あなたが悔いておられるのは、叱られたからではありませんね。

……ご自身の言葉が、届かなかったことが、なによりも辛かったのでしょう?」

男が、驚いた顔で翠薫を見る。

(なぜ、それを……)

「それだけで、あなたはもう、よい師の面影を持っておいでです」

「教えるということは、技だけでなく、自分の背中を見せるということ。

もし手を抜けば、その心までも伝わってしまいます。

でも、真心で向き合えば……その若い方は、きっと、あなたを越える職人になるでしょう」

香が、静かに、空気と混ざり合う。

「それが、ほんの少し悔しいと思うのも……人の心というものですのよ」

男は、うつむいた。翠薫は、そっと続けた。

「自分の居場所を奪われるかもしれない、という不安は……守りたいものがあるからこそ生まれるのです」

「そして、若い方の育成を任されたということは、

あなたの仕事ぶりが丁寧で、信頼されているからこそではありませんか?」

「技だけではない。あなたが積み重ねてきたもの、それが、今のあなたを支えているのです」

男は、ぽろぽろと涙をこぼした。


「ありがとうございました、またお越しください。」

「お気を付けて」

練香と匂い袋を、大事そうに抱えて帰っていく背中を、翠薫と小菊は見送った。

「良かったですね、あのお客さん。来た時より、ずっと顔が明るくなってましたよ」

「ええ……あの香で、ゆっくり眠れるといいわね。明日が、きっと少し軽くなるように」

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