第九章:鋼鉄と祈り
「……お願いだから、行かせて」
私はそう言って、母の腕を振りほどいた。
夜の病院の廊下。祖父の入院室の前で、母は不安げな顔をしていた。
けれど私の目を見た瞬間、何も言わずにその手を離した。
祖父ミハエルはベッドに横たわっていた。
目は閉じていて、呼吸は静かだった。まるで、眠っているだけのようにも見えた。
けれど、私は知っていた。
この時間が、長くは続かないことを。
「おじいちゃん……私、連れて行きたい場所があるの」
私の声に、祖父のまぶたがかすかに動いた。
私はそれを“頷き”だと受け取った。
*
タクシーでの帰り道、祖父は目を閉じたまま、何も話さなかった。
けれど私は、彼が覚えていることを信じていた。
あの夜のこと。アイゼンのこと。
沈黙は、記憶を否定するためではなく、守るためにあるのだと、私はもう知っていた。
納屋に着くと、私は祖父の手を引いて中に入った。
空気は冷たく、懐かしい鉄の匂いがした。
そこに、アイゼンがいた。
いつもの場所。けれど、その目はすでに私たちを見つけていた。
私は祖父の前に彼を連れていき、静かに言った。
「お願い。あの夜のこと……見せてあげて」
アイゼンは動かない。
だが、その胸部がゆっくりと開いた。
光が広がり、記録が再生される。
*
雪の夜。
瓦礫の隙間を駆ける少年の姿が映る。
痩せた体。息を切らし、恐怖に目を見開いている。
その前に、黒い影が立ちはだかる。
アイゼン──その当時の姿。鋼鉄の巨体。赤い目。右腕の銃口。
少年は立ち尽くす。逃げ道はなかった。
けれど、銃は撃たれなかった。
数秒の沈黙。
その中で、アイゼンは、ゆっくりと銃を下ろした。
少年の目が涙で潤む。
その涙に、アイゼンは何の反応も示さない。
けれど──その目の奥に、揺らぎのような光が宿っていた。
少年は走り去る。
後ろも振り返らず、ただ全力で逃げる。
そして、アイゼンは──動かないまま、その背中を見送る。
映像が、終わった。
*
私は祖父を見た。
彼の目から、静かに涙が流れていた。
「……あれは、私だった」
かすれた声が、ようやくこぼれる。
「なぜ、私を見逃したのか。わからなかった。ずっと、わからなかった。
私は……ただの幸運だったのか、それとも……」
アイゼンは何も答えなかった。
だが、祖父は静かに頷いた。
「ありがとう……」
その言葉は、誰に向けたものだったのか。
アイゼンか。神か。命そのものか。
けれど私は、それが祈りであることだけはわかった。
*
祖父はその後、私の手を握ったまま目を閉じた。
まるで、何十年という問いかけに、ようやく答えが届いたかのように。
私はそっと彼の横に座り、アイゼンの顔を見上げた。
「……ありがとう、アイゼン」
アイゼンは、静かに目を閉じた。
その瞼の奥に、あの少年の姿が残っている気がした。
その少年が今、こうして老いて、再び目の前にいるという奇跡を。
私は、ノートを開いた。
最後のページに、こう書いた。
「祈りは、誰にも届かないものだと思っていた。でも今、私は知っている。
祈りは、記憶になる。誰かを守るために、そこに残る。」
*
その夜、私は星空を見上げた。
雲が晴れ、いくつもの光が滲んでいた。
私は思った。
この世界には、たしかに“人間ではないもの”が存在している。
だけど、だからといって、心がないわけじゃない。
鉄にだって、涙はある。
たとえ、それが流れなくても。
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