第九章:鋼鉄と祈り

 「……お願いだから、行かせて」


 私はそう言って、母の腕を振りほどいた。

 夜の病院の廊下。祖父の入院室の前で、母は不安げな顔をしていた。

 けれど私の目を見た瞬間、何も言わずにその手を離した。


 祖父ミハエルはベッドに横たわっていた。

 目は閉じていて、呼吸は静かだった。まるで、眠っているだけのようにも見えた。


 けれど、私は知っていた。

 この時間が、長くは続かないことを。


 「おじいちゃん……私、連れて行きたい場所があるの」


 私の声に、祖父のまぶたがかすかに動いた。

 私はそれを“頷き”だと受け取った。



 タクシーでの帰り道、祖父は目を閉じたまま、何も話さなかった。

 けれど私は、彼が覚えていることを信じていた。

 あの夜のこと。アイゼンのこと。

 沈黙は、記憶を否定するためではなく、守るためにあるのだと、私はもう知っていた。


 納屋に着くと、私は祖父の手を引いて中に入った。

 空気は冷たく、懐かしい鉄の匂いがした。


 そこに、アイゼンがいた。

 いつもの場所。けれど、その目はすでに私たちを見つけていた。


 私は祖父の前に彼を連れていき、静かに言った。


 「お願い。あの夜のこと……見せてあげて」


 アイゼンは動かない。

 だが、その胸部がゆっくりと開いた。

 光が広がり、記録が再生される。



 雪の夜。

 瓦礫の隙間を駆ける少年の姿が映る。

 痩せた体。息を切らし、恐怖に目を見開いている。


 その前に、黒い影が立ちはだかる。

 アイゼン──その当時の姿。鋼鉄の巨体。赤い目。右腕の銃口。


 少年は立ち尽くす。逃げ道はなかった。

 けれど、銃は撃たれなかった。


 数秒の沈黙。

 その中で、アイゼンは、ゆっくりと銃を下ろした。


 少年の目が涙で潤む。

 その涙に、アイゼンは何の反応も示さない。

 けれど──その目の奥に、揺らぎのような光が宿っていた。


 少年は走り去る。

 後ろも振り返らず、ただ全力で逃げる。

 そして、アイゼンは──動かないまま、その背中を見送る。


 映像が、終わった。



 私は祖父を見た。

 彼の目から、静かに涙が流れていた。


 「……あれは、私だった」


 かすれた声が、ようやくこぼれる。


 「なぜ、私を見逃したのか。わからなかった。ずっと、わからなかった。

 私は……ただの幸運だったのか、それとも……」


 アイゼンは何も答えなかった。

 だが、祖父は静かに頷いた。


 「ありがとう……」


 その言葉は、誰に向けたものだったのか。

 アイゼンか。神か。命そのものか。

 けれど私は、それが祈りであることだけはわかった。



 祖父はその後、私の手を握ったまま目を閉じた。

 まるで、何十年という問いかけに、ようやく答えが届いたかのように。


 私はそっと彼の横に座り、アイゼンの顔を見上げた。


 「……ありがとう、アイゼン」


 アイゼンは、静かに目を閉じた。


 その瞼の奥に、あの少年の姿が残っている気がした。

 その少年が今、こうして老いて、再び目の前にいるという奇跡を。


 私は、ノートを開いた。

 最後のページに、こう書いた。


 「祈りは、誰にも届かないものだと思っていた。でも今、私は知っている。

 祈りは、記憶になる。誰かを守るために、そこに残る。」



 その夜、私は星空を見上げた。

 雲が晴れ、いくつもの光が滲んでいた。


 私は思った。

 この世界には、たしかに“人間ではないもの”が存在している。

 だけど、だからといって、心がないわけじゃない。


 鉄にだって、涙はある。

 たとえ、それが流れなくても。

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