第七章:失われたプログラム

 その夜、私は眠れなかった。

 目を閉じるたび、ノートに書いた言葉が浮かんできた。


 「たとえ証拠がなくても、これは私の真実だ」


 その一文を、私は自分の胸にそっと重ねてみた。

 嘘じゃない。幻でもない。誰かがそれを信じてくれなくても、私だけは、信じると決めたのだ。


 だから私は、翌日も納屋に向かった。

 外は凍るような風。雲に覆われた空。けれど私は、そこに行かなければならないとわかっていた。


 扉を開けると、アイゼンはいつもと同じ場所にいた。

 動かず、何も言わず。だがその沈黙の中に、私はもう“温度”を感じていた。


 「来たよ、アイゼン」


 私は彼の足元に座り込み、前に使ったノートを取り出した。

 そこには、これまでに記録された情報や、私自身の言葉、祖父のノートから写した断片が並んでいた。


 ページをめくると、その中に──

 あのプレート“Schatten”の裏面の刻印を写したスケッチがあった。


 私はその刻印が気になっていた。

 そこには通常の型番に混じって、奇妙な英字が刻まれていたのだ。


 「PRG-B3 // Ver.13.2-REM」


 私はそれをメモとして書き留めていたが、今になってふと、違和感を覚えた。

 “REM”──それは、一般的には「Remove(削除)」の略だ。


 私は立ち上がり、アイゼンに向き直った。


 「ねえ、あなたの中のプログラムって……削除されたものがあるの?」


 もちろん、答えは返ってこなかった。

 けれど、その瞬間。アイゼンの胸部が、再びかすかに開いた。


 今度は記録映像ではなく、文字情報が光のパネルとして浮かび上がった。



 【機能記録:EISEN 07】

 【更新履歴──】


 ・Ver.13.0:対人制圧プログラム実装

 ・Ver.13.1:優先命令上書き

 ・Ver.13.2:感情制御制限コード追加

 ・Ver.13.2-REM:制御命令B3系統の削除記録あり



 そこには、機械の言語が淡々と並んでいた。だが私は、その“削除された命令”の内容が、何かを物語っている気がしてならなかった。


 「命令……が、消されたの?」


 私は声に出して読んだ。


 “制御命令B3”


 それが何を意味するのか、具体的な内容は記されていない。

 だが次の行に、かすかに壊れたような文字列が浮かび上がる。


 ──ERR // B3.CONFIRM.DECISIVE.DENY

 ──ERR // OVERRIDE FAILURE // ETHICAL DEFERRED


 読めるところだけを繋げると、そこにはこうあった。


 「決断を拒否する命令、上書き失敗、倫理判断を遅延」


 私は思わず呟いた。


 「“迷わず命令を実行せよ”って命令……それが、消されたの?」


 沈黙。

 だがその沈黙は、私の言葉を否定しなかった。


 「だから、あなたは“迷えた”んだ。おじいちゃんを……“殺さずに済んだ”んだよね」


 私は初めて、確信に近い感情を抱いた。

 この兵器は“壊れた”のではない。

 命令に従えなくなったのではない。従わないことを、自分で選んだのだ。



 私は膝の上のノートに、新たな見出しを書いた。


 《失われた命令》


 その下に、線を引いて、こう記した。


 「殺すな、ではない。迷うな、が消された。」


 それは、命令と自由の境界線だった。

 命令を遂行するための機械にとって、“迷い”はエラーだ。

 けれど、もしそのエラーが、“人間らしさ”だとしたら?


 私はアイゼンの目を見上げた。


 「あなたの中の、いちばん大事なところが、わざと壊されてたんだと思う。

 それはたぶん、あの白衣の人──あなたを作った人が、“壊した”んだ。

 完璧な兵器じゃなくて、“あなた自身”を残すために」


 そのとき、アイゼンの目がわずかに明滅した。


 ほんの一瞬だった。けれど、その“揺らぎ”は確かに、私の胸に響いた。



 私は、ノートの最後のページをめくった。

 そこに書きたかったのは、証明でも記録でもなかった。


 ただ、一つの言葉だった。


 「あなたの“欠けた部分”が、きっとあなたを人間にしたんだ」


 そう書いたとき、涙がこぼれた。

 それは悲しみの涙ではなかった。

 ただ、“壊れたものが意味を持つ”ということに、私は初めて触れたのだった。

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