第四章:誰も語らなかった夜

 祖父の部屋は、昼間でもどこか薄暗かった。


 レースのカーテン越しに差し込む光は、埃の粒を照らしながら、床にぼんやりと落ちている。

 部屋の隅には古びた机、本棚、使い込まれた椅子。すべてが重く、静かで、まるで時間そのものが息を潜めているようだった。


 その椅子に、祖父ミハエルは座っていた。

 分厚いセーターに肩を包み、膝に毛布をかけ、目を閉じていた。

 私はその姿を何度も見てきたけれど──今は、その沈黙の奥に、何かがある気がした。


 「おじいちゃん……話があるの」


 声をかけると、祖父はゆっくりと目を開けた。

 その瞳は、昔の写真と同じ、どこか怯えたような色をしていた。


 「アイゼンって、知ってる?」


 しばらく沈黙があった。

 祖父は眉をわずかにひそめ、遠くを見るように目を細めた。

 私は、ゆっくりと続きを話した。納屋で見た鉄の巨人のこと。名前の刻印。記録映像。

 言葉を選びながら、でも隠さず、すべてを。


 話し終えたとき、祖父はまだ何も言わなかった。

 ただ、かすかに手が震えていた。それが、答えよりも先にすべてを語っていた。



 「……あれは、怪物だった」


 祖父の声は、低く、かすれていた。

 部屋の空気が一瞬凍ったように感じた。私は思わず息を詰めた。


 「私は、あれを見た。あの目を。あの銃口を。人を選ばず、命令の通りに動く。そういうふうに、作られていたんだ」


 祖父の瞳が遠くの闇を見ていた。まるで、70年前の冬を、いまもまだ目の前にしているかのように。


 「でも──逃げられたのは、事実なんだよね?」


 私は問いかけた。

 写真の裏に書かれていた言葉。“あの夜、私を見逃した”という文字。それが、記憶違いではないと信じたかった。


 祖父は言葉を返さなかった。

 ただ、静かに、目を閉じた。


 私は続けた。「おじいちゃんは、生き残った。だれかが、助けてくれた。それが、アイゼンだったなら……」


 そのとき、祖父の表情がほんの一瞬だけ揺れた。

 けれど、すぐにもとの沈黙に戻った。


 「忘れろ、アリエ」


 祖父の声は、かすかに震えていた。それは怒りでも拒絶でもなかった。ただ、苦しみに近い静けさだった。


 「……なぜ?」


 「記憶は、戻せば戻すほど、痛む。傷口と同じだ。開けばまた、血が流れる」


 私は答えられなかった。

 けれど、胸の奥では、何かが強く反発していた。


 逃げちゃいけない。忘れちゃいけない。

 だって、彼はあのとき──アイゼンは、確かに“選んだ”んだ。



 その夜、私は再び納屋に行った。

 空は雲に覆われ、星も月もなかった。けれど、私は道を覚えていた。手足が冷えていても、心はなぜか燃えるように熱かった。


 扉を開けると、そこに彼はいた。

 あの日と同じ姿で、沈黙の中に身を置いていた。


 私はそっと近づき、彼の前に座った。


 「……おじいちゃんは、話してくれなかった」


 アイゼンは動かない。

 でも、その静けさが私は好きだった。否定しない。拒まない。ただ、そこにいる。


 「でも、私は知りたい。あなたがなぜ、銃を下ろしたのか。なぜ、おじいちゃんを逃したのか。

 私は、それを……忘れたくない」


 アイゼンの目が、かすかに明滅した。

 そして、胸部の装甲がわずかに開いた。そこから、もうひとつの小さなプレートが現れた。


 私はそれを受け取った。重みはほとんどなかった。

 表面には文字が刻まれていた。


 「記録コード:Schatten」

 ドイツ語で「影」。見えないもの。あるいは、光を受けて生まれるもの。


 その言葉を見たとき、私はなぜか涙がこぼれそうになった。


 「ねえ、アイゼン……あなたにも、影はあったの?」


 答えはなかった。

 けれど、その静けさの奥に、私は確かに“誰か”の痛みを感じていた。


 たとえ、鋼でできた心でも。

 忘れることを選んだ記憶でも。


 そこに、かつて“夜”を生きた誰かの影があるなら──

 私は、それを抱きしめてみたいと思った。

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