恋をやめたら、人生は面白くなってきました。〜友達以上、運命未満〜

白沢 果

運命の人

 恋に、部活に、勉強に――女子高生は忙しい。


 誰がくっついただの、別れただの。

 そんな話題に教室はいつも賑わっている。


 でも、私には関係ない。

 だって私には――


 ――“運命の人”がいるのだから。





 ***



「大ちゃん、来てるの!?」


 玄関のドアを開けるなり、整えられた革靴が目に入る。

 見慣れた、ちょっといいブランドの黒い靴。

 それだけで、胸がきゅっとなる。


(今日来るなんて聞いてないのに……!)


 杏奈はカバンも放り出して、スリッパも履かずにリビングへ駆け込んだ。


「おかえり、杏奈ちゃん」


 ソファに腰かけていたのは、城崎 大輝(きざき だいき)、二十四歳。

 母の幼なじみの息子で、年に数回こうして遊びにくる“家族同然”の存在。


 でも、杏奈にとっては違う。


 彼は――世界にひとりだけの、運命の人。


「なんだ、杏奈。騒々しいなあ。すまんな、大輝くん」


「気にしないでください。元気な杏奈ちゃんを見ていると、僕まで元気になりますから」


 そう言われただけで、杏奈は胸の奥がぱっと明るくなる。


(大ちゃんが元気になるなら、私なんていくらでも騒ぐよ!)


 小躍りしたい気持ちを何とかこらえて、杏奈はソファのそばにぴたりと座り込んだ。


「今日、大輝くんは旅行のお土産を持ってきてくれたのよ。ほら、ちゃんとお礼言いなさい」


 台所から出てきた母が、手にした箱を杏奈に差し出す。

 箱には高級そうな海外のチョコレートのロゴが刻まれていた。


 大輝は社会人になってからも、たまにこうして旅行へ行っては、うちに顔を出してくれる。

 父親同士が昔からの友人で、小さい頃からずっと一緒に遊んでくれていた彼。

 私にとっては、ずっと、特別な人だった。


 ――たとえば、あの言葉を聞くまでは。


「そんなに仲いいなら、大輝、お前……杏奈ちゃんをお嫁さんにしたらどうだ?」


 数年前の正月。

 酔っぱらった大輝のお父さんが冗談めかして言った一言。

 その場は笑って流されたけど――杏奈の中では、笑い事じゃなかった。


あの瞬間から、彼は“本当に”私の運命の人になったのだ。


 それにしても、大輝は杏奈の好みをよくわかっている。

 チョコレートなんて、甘いものに目がない杏奈には嬉しすぎるお土産だった。


(さすが、大ちゃん。やっぱり私のこと、ちゃんと見ててくれてる――)


 そう思った矢先だった。


「モルディブなんておしゃれねぇ。やっぱり、彼女と行ったの?」


 母の問いは、ごく普通のものだった。

 杏奈の中に一瞬広がったのは、**「まさか」**という自信だった。


(そんなわけない。大ちゃんが、誰かと――)


「ええ、まぁ。……彼女、海が好きなので」


 瞬間、心臓が落ちた。


 大輝の声が、まるで別の世界の言語のように響く。

 意味はわかるのに、頭が拒否して、心が追いつかない。


「プロポーズ、したんでしょ?」


「――はい。受け取ってくれました」


 照れたように微笑むその顔は、幸せそうだった。

 それなのに杏奈の世界では、なにかが崩れていく音がしていた。


「……大ちゃん、結婚するの?」


 ようやく絞り出した声は、思いのほか小さかった。


「ああ、そうだよ。式の準備があるから、たぶん一年後くらいに入籍する。

 式、来てくれよ。招待状、出すからさ」


 本当に嬉しそうに笑って、大輝はそう言った。


「すごいな、まだ二十四だろ? 最近じゃ珍しいよな」


「何言ってるの。結婚は早いほうが後々楽なのよ」


 両親の明るい声と、大輝の柔らかい笑い声。

 杏奈は、もう何も言えなかった。


 ただ、**置物のように微笑みながら、**

 誰にも気づかれないまま、そこに座っていた。




「杏奈ー? 少しでも食べないの?」


 階段の下から、母の呼ぶ声が聞こえてくる。


「……いらない」


 それだけ返して、杏奈は布団の中に潜った。


 ――何が、運命の人だ。くだらない。


 そんなふうに思っていたのは、きっと私だけで。

 大輝にとって私は、ただの“近所の子”で、

 “かわいい妹”みたいな存在でしかなかった。


 チョコレートだって、

 私が喜ぶからじゃなく、彼女の家に挨拶に行ったついでに買っただけ。

 そのくらい、想像すればわかったはずなのに。


 ああ、ほんと、馬鹿みたいだ。


 一人で浮かれて、一人で勘違いして――


 本当に、馬鹿みたい。


 ずっと、大輝は“運命の人”だと思ってきた。

 でも、それが違うのなら――


 私は、これから何を信じて生きていけばいいの?

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