千灯の記憶

@Youlee

前奏曲

語り部の微睡 翡翠の瞳

誰もいない小さな石造りの野外の舞台。崩れかけた階段、苔むした石畳。ひっそりと佇むその場所で、朱里しゅりはひとり、目を閉じていた。


深く、深く——内なる感覚に意識を向ける。彼女の胸の奥には、いつも微睡のように眠る、掴みどころのない過去の感触がある。それは輪郭を持たず、痛みも悲しみも伴わない。ただ、漠然とした「」として、澱のように沈んでいた。


ゆっくりと瞼を上げると、観客席の片隅で、翡翠の瞳がこちらを見上げていた。

真っ白な毛並みを風にそよがせ、小さな体は真っすぐに朱里を見つめている。

応えるように小さく笑みを浮かべると、それまでの寂寥感を振り切るように両手を大きく広げ、澄み渡る空を仰いだ。語りかける声が、自分の中からこだまする気がした。けれどその声が、今はまだ——遠い。


夢の中で朧げな情景が浮かび上がるが、目覚めれば泡沫のように消え失せる。自身の過去が、彼女自身の物語の空白となっていることに、朱里は言いようのない寂しさを感じていた。


神が造りし世界を巡る島「蓬莱ほうらい」。島に物語を届け旅する——千灯座せんとうざ。語り部・朱里は、時に人々の活気で満ちた集落の中心で、時にひなびた社で、古き神話の物語を、人々の営みを紡ぐ。力強い彼女の声は、どこまでも澄み渡り、時に力強く、時に優しく、聞き手の心を捉えて離さない。


今日も、朱里は舞台に立つ。人々の期待の眼差しを受け、声が世界を彩る。彼女の語りが、どれほどの隠された力を持っているのかも知らずに。そして、彼女の失われた記憶の「」が、まだ見ぬ誰かの「やさしい声」によって開かれようとしていることも、この小さな舞台の始まりを見守る——翡翠の瞳だけが知っているのだった。

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