第2話 欠片を抱いて

感情制御法が崩壊して、まだ一年も経っていない。

 だが世界は変わっていた。


 都市には笑い声が戻り、花が飾られ、涙をこらえずに流せる日常があった。けれど──その裏では、新たな不安と戸惑いも、確かに芽吹いていた。


 


 ミナは、ヒロシがかつて暮らした旧区画の一室にいた。誰も使っていなかったその部屋には、古い記憶と匂いが残っていた。


 壁際の本棚。擦り切れたソファ。机の上の、小さな銀色の鈴。

 ノエルがよく遊んでいた、あの音を覚えている。


 ミナは、そっとその鈴を掌に包んだ。

 音は鳴らなかった。でも、不思議とあたたかかった。


 


 セリアの研究室では、静かに新しい演算が進められていた。

 ノエルの遺した感応ログ。断片的なデータに含まれていた、未知の感情共鳴パターン。

 それは、どの生体にも完全には一致しないものだった。


「……この波長、誰かを慰めようとするパターンに酷似している。けれど、これを生んだのは……」


「ノエルよ」

 ミオが口を挟んだ。


「間違いない。あの子の……心が残した痕跡」


 


 一方、リタは旅先の村で、小さな奇跡を見ていた。


 重い病に伏せる子どもの枕元に、白い猫が寄り添っていた。医者たちはただの偶然と言うが──その子は微笑みながらこう言った。


「……この子が夢の中で、『悲しまなくていいよ』って言ってくれたの」


 リタは凍りついた。夢の中の猫。その子の話す声色、仕草。

 それは、確かに「ノエル」を思わせるものだった。


 


 その夜、ミナは旧演算棟跡地に立ち、ふと夜空を見上げた。

 「HIRO-01」が、遠くゆっくりと瞬いている。


「兄さん……」

 その名を呼ぶと、懐から、鈴の音がかすかに響いた。


 


 ──それは、誰かが生きたいと願った音だった。

 もうここにはいない、優しい声のかけら。

 けれど今も、誰かの涙に、そっと触れてくれるような。


 ノエルはもう、どこにもいない。

 でもその欠片は、確かにこの世界のどこかで──祈っている。

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