第12話 「それぞれの時間の淵」

失意の画家との出会いを終え、「時の止まり木」に戻った律と梓は、それぞれが持つ「止まった時間」について、静かに考えを巡らせていた。律はカウンターの奥でコーヒー豆を挽きながら、画家の言葉を反芻していた。「未来を描けなくなった画家」。一度は祖父によって動かされた時間が、再び止まってしまう現実。それは、律自身の「失敗」とあまりにも重なり、彼の心を深くえぐった。


「律さん、少し、いいですか?」


梓の声に、律は手元の作業を止めた。梓は、手帳を開いたままのテーブルに座り、祖父の筆跡を指でなぞっていた。


「私たち、これまで『止まった時間』を持つ人たちを、外から見てきましたよね。でも、律さん自身も、私も、それぞれ『止まった時間』を抱えているんだなって、改めて思いました」


律は何も言わず、梓の言葉に耳を傾けた。


「私の『止まった時間』は、あの時、家族がバラバラになってしまったことです。父と母、そして私。それぞれが、違う方向に歩き出して、もう二度と、あの頃には戻れない。あの温かい時間が、私の中ではずっと止まったままなんです」


梓の声は、微かに震えていた。彼女の明るさの裏に隠されていた、深い悲しみと、満たされない家族への渇望が、静かに滲み出ていた。律は、梓が抱える痛みに、心が締め付けられるような思いがした。


「でも、律さん」


梓は、顔を上げて律を見つめた。その瞳には、涙が浮かんでいたが、それでも真っ直ぐな光を宿していた。


「あの日、律さんが私に、自分の失敗を話してくれた時、私、少しだけ心が軽くなったんです。律さんの『止まった時間』に触れて、私だけじゃないんだって思えたから。律さんのコーヒーが、私の心を温めてくれるように、律さんの言葉も、私にとっての希望の光なんです」


律は、梓の言葉に息を呑んだ。自分の抱える絶望が、誰かの希望になり得るなど、考えたこともなかった。彼は、自分の「失敗」に囚われ、ただ目を背けてきただけだった。しかし、梓は、その「失敗」すらも、受け止めて、光に変えようとしてくれている。


「僕の『止まった時間』は……あの時、壊してしまった時計と、それによって失われた、誰かの希望です。そして、時計師としての、僕自身の夢も」


律は、絞り出すように言葉を紡いだ。


「あの画家を見て、改めて思いました。一度動いたはずの時間が、また止まってしまうこともある。僕が、また誰かの時間を壊してしまうかもしれない。そう思うと……」


律の声は途切れ、俯いた。彼の心には、また深い絶望の淵が広がろうとしていた。


梓は、席を立ち、カウンターの向こうの律の傍まで歩み寄った。そして、律がいつも懐にしまっている、祖父の懐中時計をそっと手にした。


「律さんのおじい様は、きっと、完璧な時計師ではなかったのかもしれません。でも、それでも、多くの人々の時間を動かしてきた。それは、きっと、おじい様自身も、たくさんの失敗や苦悩を乗り越えてきたからこそ、できたことなんだと思います」


梓は、律の祖父の懐中時計を、そっと律の掌に乗せた。


「律さん自身が、今、まさに『止まった時間』と向き合っている。だからこそ、これから律さんが動かす『時間』は、誰かの心を、もっと深く、強く動かせるはずです。完璧じゃなくていい。一度止まってしまっても、また動き出せばいい。そうやって、人は生きていくんじゃないでしょうか」


梓の言葉は、律の心に深く、深く染み渡った。それは、祖父がかつて彼に語りかけた言葉よりも、さらに強く、リアルに律の心を揺さぶった。彼は、自分の手の中の懐中時計を、じっと見つめた。止まった針。だが、もうそれは絶望の象徴ではない。むしろ、これから再び動き出す、未来への希望を刻むための、大切な「時間」の象徴に見えた。


律の瞳に、再び強い光が宿った。彼は、梓に向かって、ゆっくりと、しかしはっきりと口を開いた。


「梓さん……ありがとう」


律の言葉は、これまでのどんな言葉よりも、感情がこもっていた。梓は、その言葉に、優しい笑顔を返した。それぞれの「止まった時間」を抱えながらも、二人の心は、今、確かに深く繋がり合っていた。そして、律は、自分の「止まった時間」を動かすために、新たな一歩を踏み出す決意を固めたのだった。


続く

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る