時を刻むカフェの記憶
暁月 紡
第1話 「止まった時間」
古い商店街の、さらに奥まった細い路地裏。そこには、まるで時が置き去りにされたかのようにひっそりと佇むカフェがあった。「時の止まり木」。古びた木製の看板には、色褪せた文字でそう記されている。店内は、控えめなアンティーク家具と、焙煎されたばかりのコーヒー豆の香りで満ちていた。しかし、その温かい雰囲気とは裏腹に、店主である藤堂 律の表情は、常にどこか影を帯びていた。
律は30代半ば。白いシャツの袖をまくり、カウンター越しに客と向かい合う彼の指先は、コーヒーを淹れる所作ひとつにも、その繊細さが滲み出ていた。丁寧に豆を挽き、湯を注ぐその姿は、まるで時間を紡ぐ職人のようだ。だが、彼がかつて本物の職人、時計師だったことを知る者は、この店にはほとんどいない。
律の時計師としての時間は、**10年前の、たった一度の「失敗」**で、音を立てて止まってしまった。依頼された大切な懐中時計を誤って壊してしまったあの日。依頼主の激しい失望と、自身の技術への絶望が、彼の未来を奪い去った。それ以来、律の時間は止まったままだ。止まってしまったのは、時計の針だけでなく、律自身の心もだった。
店の壁には、律の祖父が遺したアンティークの懐中時計が飾られている。磨き上げられた真鍮製のケースは美しいが、針はぴくりとも動かず、正確に午前10時15分で止まったままだった。律にとってそれは、時計師であった祖父への憧れと、果たせなかった自分自身の夢の象徴だ。彼は、その止まった針を見るたび、胸の奥がきゅうと締め付けられるのを感じる。
その日もまた、雨がしとしとと降り続く午後だった。傘をたたむ音がして、カフェの扉が開く。入ってきたのは、佐倉 梓。20代後半の、快活そうな女性だ。彼女は濡れた髪を払いながら、好奇心に満ちた瞳で店内を見回した。
「すみません、このカフェ、取材させて頂きたくて……」
梓が差し出した名刺には「ルポライター」とあった。律は、梓のまっすぐな眼差しを受け止めながらも、小さく首を振った。
「申し訳ありませんが、当店は取材はお断りしております」
律の声は、いつも通り抑揚がなく、感情を読み取らせない。梓は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに表情を切り替えた。
「そうですか……でも、せっかく来たんですし、コーヒーだけでもいいですか?」
律は無言で頷き、カウンターに立つよう促した。梓は律が淹れるコーヒーの深い香りに引き寄せられるように、カウンターに腰を下ろした。律は丁寧にペーパーフィルターをセットし、挽きたての豆を淹れる。湯を注ぐと、ふわりと膨らむコーヒーの粉から、甘く香ばしい湯気が立ち上った。
「どうぞ」
律が出したカップには、琥珀色のコーヒーが静かに揺れていた。梓は一口飲むと、その瞳を大きく見開いた。
「美味しい……!こんなに丁寧に淹れてもらったコーヒー、初めてです」
梓の言葉に、律は何も言わず、ただ静かにその様子を見つめていた。梓はゆっくりとコーヒーを味わいながら、壁の止まった懐中時計に視線を向けた。
「あの時計、素敵ですね。でも、止まってる……」
律の視線も、時計へと向けられる。彼の顔に、一瞬、深い影が落ちたのを梓は見逃さなかった。
「あれは、祖父のものです」
律がぽつりと言った。それ以上、彼は時計について語ろうとはしなかった。梓はそれ以上尋ねるのをやめた。律の瞳の奥に、何か触れてはいけないものが隠されているのを感じ取ったからだ。
梓は結局、その日は取材を諦めた。しかし、律が淹れるコーヒーの味と、彼の瞳の奥に潜む「何か」が、梓の心を捉えて離さなかった。彼女は次の日から、まるで約束でもしたかのように、毎日「時の止まり木」を訪れるようになった。律は相変わらず口数は少ないが、梓が来店すると、黙っていつものコーヒーを淹れるようになった。
雨の日は特に、カフェの中は静かで、二人の間には心地よい沈黙が流れる。ある日、梓は自分のマグカップを両手で包み込みながら、ぽつりと語り始めた。
「私、小さい頃に両親が離婚して……それから、父とはずっと連絡を取っていないんです。だから、家族っていうものが、私の中では、ずっと止まったままの時間みたいな気がして」
律は、梓の言葉に、何も言わず耳を傾けていた。彼の目元が、かすかに揺れたように見えた。梓は、律もまた、自分と同じように「止まった時間」を抱えていることを薄々感じ取っていた。そして、その共通の影が、二人の間に、言葉にできない、しかし確かな絆を少しずつ育んでいくのだった。
止まったままの懐中時計が飾られたカフェで、二人の「止まった時間」は、まだ静かに、しかし確実に、互いに引き寄せられ始めていた。
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