第3話:東の庭園で、秘密のはじまり

朝靄の名残が薄く残る王城の庭園は、どこか神秘的だった。


東の庭園――王族や高位貴族以外は滅多に足を踏み入れることのない場所。手入れの行き届いた白薔薇のアーチをくぐると、静かな泉があり、澄んだ水面が朝の陽光をきらきらと反射している。


私はその場所に、誰にも気づかれぬよう足早に向かっていた。セレスト侯爵に会うために。


こんなにも心が騒いでいるのはなぜだろう。

私はただ彼に感謝を伝えたいだけ。それ以上でも、それ以下でも――あるはずなのに。


「来てくれて、ありがとう。」


彼は、泉の前に立っていた。朝の光に照らされた彼の横顔は、まるで彫刻のように静かで、美しかった。


「……誰かに見られたら、大変なことになるわ。」


そう言いながらも、私は目を逸らせなかった。彼がこの場に立っているだけで、胸の奥がざわめく。


「大丈夫。ここには、僕たち以外誰も来ない。」


淡々とした声。だが、その一言に不思議と安心させられる。


「なぜ、私なの?」


私は問いを口にした。

彼のように完璧な男が、なぜ私のような“物語の噛ませ犬”に関心を抱くのか。理解できなかった。


セレストは泉の縁に腰を下ろし、ゆっくりと私を見た。


「君は自分を“悪役令嬢”だと信じている。だが、それは物語の都合でそう描かれただけだ。」


「……でも、私は確かに、あの子――ミレーヌにひどいことをしてきた。陰口も、冷笑も、全部私の意思だった。」


「本当に? それは“彼女”が純粋すぎて、誰かがバランスを取らなければいけなかったからじゃないのか?」


私は言葉を失った。

彼が何を知っているというのか。ミレーヌ――この世界のヒロインは確かに“正しすぎる”存在だった。周囲の悪意すら無意識に引き寄せてしまうような、無垢な光。


「君が悪人として振る舞ったのは、彼女を守るためでも、他を守るためでもあった。そうは思わないか?」


「……誰も、そんなふうに言ってくれたことはなかった。」


気づけば、私は座り込んでいた。力が抜けていた。

誰かが私の“動機”を聞こうとしたことなど一度もなかったのだ。誰も、見ようとしなかった。


けれど彼は、違った。


「僕は君の選んだすべてを肯定するわけじゃない。だが、君を一方的に裁くつもりもない。君には……自由になる権利がある。」


セレストはそう言いながら、ポケットからひとつのペンダントを取り出した。


小さなガラス細工の中には、蒼く透き通った雫のような石がひとつ。


「これは……?」


「旅先で手に入れたものだ。魔道具ではない。ただの護符だが……持っていてほしい。」


私は手を震わせながらそれを受け取った。

こんなに優しくされたのは、いつぶりだっただろう。


「私が……ここにいていいと、思っていいの……?」


小さな声だった。けれど、それは心の奥底からこぼれ出た本音。


セレストは頷き、私の手のひらをそっと包んだ。


「思っていい。君は、誰よりも……ここにいていい。」


その手は温かく、優しく、罪深かった。

だって彼は、ミレーヌの婚約者なのだから。


けれど私は、もう目を逸らせなかった。

この日から始まった秘密の逢瀬が、やがて私たちの運命を大きく狂わせていくことになると知らずに。


ただひとつ確かなのは――

この時、私は彼に、心を許してしまった。

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